弁護士 森野 俊彦の部屋

乗れなかった特急サロベツ

2017/01/01 00:00:13

熱狂的な「鉄チャン」ではないけれども、ローカル線に限らず普段乗らないJRに乗るのは大好きだ。この夏、旭川弁護士会から招待を受けて同市を訪れる機会に恵まれたので、前日に空路稚内に赴き、翌日、宗谷本線のサロベツ号で旭川に行く予定を立てた。8月19日稚内到着後、宗谷岬などに立ち、夜は利尻、礼文を臨む日本最北の稚内市内の温泉の銭湯に浸かって大満足。翌日午前中もノシャップ岬にまわるなどしてのんきに行程を楽しんだあと、どこかで時間つぶしをするかなと稚内駅に立ち寄った途端、特急サロベツ運休の張り紙を見てびっくり仰天。その日旭川までいく電車はなく、パスはもともと運行されていないという。幹事役の弁護士に連絡を入れると、できれば当夜の懇親会に出席されたし、ただし、交通手段はタクシーしかないとのこと。是非もなく駅前に駐まっていたタクシーの運転手と交渉したところ、会社と相談され、それなりの料金で出発OKとなった。途中2回の休憩をとって4時間半、距離にして約250キロの長丁場となったが、車窓から見る景色は大好きなドイツを思わせ、なかなか楽しかった。唯一の心残りは目当ての特急サロベツに乗れなかったことだ。遠からず廃線も噂されているとなると、余計に乗りたい気持ちが募るが、当方の気力体力が続くか、そちらの方が心配だ。

人吉温泉再訪

2015/08/01 00:00:18

 6月末、熊本市に出張する機会があったので、少し南にある人吉市に前泊し、温泉に浸かった。同温泉を選んだのにはわけがある。かれこれ35年も前になるだろうか、大分家裁で少年事件を担当していたとき、余罪審判で人吉農芸学院に出かけ、同市内の温泉に入ったが、そのときの気持ちよさが身体のどこかにずっと残っていた。
 おりから梅雨前線が活発で、熊本行きの飛行機も「条件付き運航」という引き返し覚悟のフライトであったが、無事到着。熊本からは昔はなかった九州横断特急に乗った。レトロでゆったりとした雰囲気に包まれ、窓の外を流れる球磨川を堪能していると、まもなく人吉着。駅舎などに往時の記憶はほとんどなく、宿へ急ぐ。宿に着くとすぐに入湯。湯に浸かって感じた。そう、この湯の感触。ちょうどよい温度、まろやかな湯ざわり。「まさにこの湯だ」といいたいけれども、そこまでいうと嘘になろう。でも本当にほっこりとさせる温泉で、小一時間ほど湯船につかっていた。湯から上がると、ビールのサーバーが目に入る。思わぬおもてなしに喜んだ他の客が何倍も呑んだうえ、私に「大将もいっぱいどうですか」と勧めてくれる。勧められた杯を拒むのは私の流儀ではない。つい杯を重ねてしまい、宿の夕食の前に既にしてほろ酔い気分になってしまった。
人吉にはもうひとつ確かめたいことがあった。犬童球渓の顕彰碑である。翌朝の散歩で、地図も見ず、おぼろげな記憶だけを頼りに人吉城跡付近を探してみた。なかなか見あたらず、宿に戻ってもう一度出直そうと思った途端、30メートルほど先にそれらしきものが見えた。足早に近づくと、はたして、犬童の顕彰碑だ。不思議と懐かしさがこみ上げ、ひと気がないのを幸いに、碑に彫られている「故郷の廃家」の歌詞に向かいながら、「幾年ふるさと 来てみれば 咲く花 鳴く鳥 そよぐ風」と口ずさんだ。
 そのときある思いにとらわれた。35年ほど前、この碑をみたとき、いつか再訪してこの碑に再会したいと思ったのでなかったのか。その証拠はなにもないが、確かにそう思ったような記憶がある。確かめる手立てはないけれど・・。

市民とつながって

2015/01/22 06:23:45

引続き、弁護士とロースクール教員の2足のわらじをはいています。
そのほか、裁判官ネットワークの準(卒業)会員として市民の皆さんとの交流も続けています。 忙しい毎日ですが、最近では何といっても、昨秋、当事務所主催の集まりで、「安心なセカンドライフを送るために」という題でお話をさせていただいたことが、いい経験となりました。折あしく雨模様の天気でしたが、それにもかかわらず足を運んでいただいた市民の皆さんに心から御礼を申し上げるとともに、繁忙な日々が続くなかで準備にいそしんでいただいたスタッフ、精力的に広報活動をしていただいた仲間の弁護士の方々にも、あらためて感謝いたします。
市民の皆さんの前でお話するのは楽しいです。
準備をする過程で、懐かしい判決(講演でお話した「女冥利判決」や「青い鳥判決」など)に再会するのも、副産物のひとつですが、それよりなにより、市民の皆さんと身近に接し、自分の裁判官としての体験が皆さんのお役にほんのわずかでも立てることができたと思えることが、このうえない喜びです。
今後も、市民の皆さんとつながる活動を続けるとともに、助言を求めてこられた依頼者のためにも最善を尽くすことをモットーに、頑張りたいとおもっています。本年もどうぞよろしくお願いします。

ポーランドとドイツの旅から

2014/09/13 06:29:10

所属事務所の岩城、中森両弁護士に後れること約1ケ月、私も、アウシュビッツ強制収容所跡を訪れました。これまで、記録映画や書物に掲載されていた写真で、その惨状をそれなりに推測しえた私にとっても、現場で見る収容者たちの写真やガス室の状況、囚人女性たちの髪の毛で作られたというカーペット等の数々は、想像を絶するものというほかなく、言葉を失いました。ポーランド政府が「国立博物館」として保存し、専門ガイドの案内のもと、勝手な行動を許さないという見学行程の意味がすぐにわかりました。そうでもしなければ、途中でいたたまれない気持ちになるか、吐き気を催すか等で離脱する人が少なくないと思われました。  
私がドイツを好きになったのは、高校生のころ。若さゆえにいろんな本を読みましたが、なかでもウイリアム・L・シャイラーの『第三帝国の興亡』(東京創元社)は、読み応えのある5巻ものの大著で、私にとって、どうして人間はかくも愚かな戦争を繰り返すのかを考える糸口になりました。そして何よりショックだったのは、本の冒頭に載っていたゲーテの「ひとりひとりは尊敬に値するが、全体としてはみじめなドイツ民族のことを考えると、しばしば私は悲嘆にくれたものである」という言葉。18世紀中ごろに生まれ19世紀前半に亡くなった文豪がナチスの出現を予想できるはずはありませんが、「どうしてドイツ人がこのようなひどいことを」という疑問は、私にとって最大の難問でした。今回のわずかな見聞でその答えを見出すことはとうてい無理でしたが、反面、珍しい体験をしました。  
2日目のビルケナウ収容所跡(収容施設というより広大な敷地に各収容棟が散在しているという状況)を見学していた最中に、あるドイツ人から「君たちは日本人か、中国人か」と尋ねられました。「日本人である」と答えると、日本語で「この場所でユダヤ人が大量に殺されたなどということを信じているのか」と、まくしたてられました。日本語と片言のドイツ語での応酬の結果、判明したのは、彼の言い分は、例の「『ホロコースト』は作り話だった」と雑誌『マルコポーロ』に書いて大きな批判を受けたN氏の論拠とほとんど同じでした(詳しくはティル・バスティアン『アウシュビッツとアウシュビッツの嘘』(白水社)を参照してください)。私が、それは「アウシュビッツリューゲ」としてすでに排斥されていると反論すると、彼はさらに再反論してきましたが、折から我々のガイドが「時間がありません」と呼びにきたので、話はそれきりになりました。おそらく、いわゆる修正主義者の主張を信奉する一派だとおもいますが、まさにその殺戮現場までやって来て、「ガス室はなかった」と言い張る迫力には、同行の方たちともどもたじろがざるを得ず、いつの時代にもまたどこにでも、そうした言説が存在することをあらためて知らされ、複雑な思いになりました。
 旅行日程の最終日、ベルリンで自由行動の1日を得ましたので、有志3名でザクセンハウゼン収容所にいってきました。同収容所は、絶滅収容所というより労働収容所に当たるものですが、それでも幾千人もの無名の人々が殺され、終戦間近の1945年4月には、囚人が収容所から北方に向かって行進させられ、ソ連軍に発見されるまで数千人が路上で死亡しました(途中の住宅地の中にその慰霊碑がありました)。限られた時間のなかで、急ぎ足の見学になりましたが、犠牲になった収容者のひとりひとりの生まれてから殺されるまでの「証し」が丁寧に展示され、胸をうちました。そこには、ドイツ政府及びドイツ国民が過去に犯した大量殺人の責任を引き受け、ナチズムの問題を「過ぎ去ってはならない過去」として未来に引き継がんとする覚悟が見受けられました。どこかの政府にそうした姿勢を学んでほしいと願いながら、収容所をあとにしました。

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