弁護士 森野 俊彦の部屋

沖縄の憲法9条の碑を訪ねて

2018/08/22 15:15:42

 今年5月、ある旅行社が主催する「沖縄9条の碑を巡る旅」に参加した。那覇から2時間半バスを飛ばして、大宜味村にある、9条の碑の前に到着した。同村の「憲法9条の会」は17年2月碑の建立を決定して村長に要請し、前向き検討の返答を得たものの、その後やや足取りが鈍った。ところが、同年5月の安倍首相の「憲法9条に自衛隊の存在を書き込む」旨の発言が、碑建立の実現をめざす者らの闘志をかき立てた結果、同年12月26日完成した。
 碑の表面は当然ながら憲法9条の条文が掲げられているが、裏面には、次のような設立趣旨が刻まれている。
 〈私たち大宜味村民はこれまで、戦争につながる一切を認めず、平和な国際社会を築くことに誇りをもち暮らしてきた。「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」を語った日本国憲法は、私たち大宜味村民が平和で文化の香り高い豊かな村作りに取り組む基本である。「命どぅち宝」を再確認、不戦への誓いを新たに、未来ある子孫への贈り物として、ここに日本国憲法第九条の碑を建立する。〉
 格調高い文章に、余計な解説は不要だろう。現代表者(女性)から建立の経緯が述べられたが、そのあと、旅行者側の求めに応じて話されたのは、戦時中に米潜水艦に撃沈された疎開船「対馬丸」の生き残りで海を6日間漂った平良啓子さんだ。いたいけな児童が力尽きて鮫が泳ぐ海の藻屑になっていく有様を、淡々と、しかししっかりとした語り口で話されたが、とても涙なしでは聞くことができなかった。
 それにしても、日本国民は、いつまで米軍基地のほとんどを沖縄県民に押しつけたまま平然としているのだろうか。9条の碑を泣くにまかせていけない。残された時間は多くはないけれども、平和のために何かをなさなければならないと考えさせられた旅であった。

リトアニアからエールを

2018/01/01 00:00:07

 昨年9月、ある旅行社が主催する「バルト三国の旅」に参加した。ソ連の圧力に屈せず、暴力ではなく歌の力でもって独立を獲得したエストニア、ラトビア、リトアニアの人々と風土に触れることが一番の目的であったが、第二次大戦中リトアニアの首都であったカウナスの町にある杉原記念館を訪れることも楽しみのひとつだった。当時領事代理だった杉原千畝のもとに、ナチスに追われてポーランドからリトアニアに逃れてきたユダヤ人が、同国も安住の地ではなくなったため日本経由でアメリカ等に渡ろうとしてビザの発給を求めてきた。杉原は、ビザ発給の許可を求めて何度も本国に対し電報を打つのだが、答えはいつも「否」であった。杉原自身も退去を求められるという窮地にたった際、彼は、救いを求めるユダヤ人を見捨てることはできず、とうとう独断でビザを発行する。その結果、六千人を超える人の命が救われたといわれている。記念館に残っている書類等をみて、あらためて杉原の偉大さを痛感する。 杉原は日本よりもむしろリトアニアで「英雄視」されているが、私が当地に滞在中、記念館の建物の傷みが激しいが修理費の捻出が困難との話を聞き知って、はるばる日本から周囲の壁のペンキ塗りにはせ参じたボランティアの塗装工と出遭い、その志の高さと意気軒昂さに接し、胸が熱くなった。記念館を出る前に、杉原が執務したという椅子に腰掛けながら、いま日本で国を当事者とする難事件を担当している何人かの裁判官を念頭に、「君よ、千畝になれ」とエールを送ったが、はたしてとどいたかどうか。

「めっけもの」との出会い

2017/08/01 00:00:58

 毎年5月と10月の週末、かつて勤務地で知り合った方達と、マイクロバスで信州方面に出かけるのを恒例としている。金曜夕方に大阪を出発し、到着が遅くなるのでその夜は定宿だが、翌日からの行程、目的地、宿泊場所は、すべて幹事さんまかせの気楽な旅である。車窓から見るのどかな田園風景(時に棚田)、遠くに姿を見せるアルプスの残雪、車内で交わされる人々のうわさ話、バスの揺れに身を委ねつつ、人生っていいなといつも思う。その夜が温泉だと、しあわせ感が2乗になる。
 そんなわけで、名所旧跡にはこだわらない。しかし、時に思わぬ「めっけもの」に出会うことがある。今年の5月、2泊目は石川県能都町宇出津であった。そこから、富山湾越しに見える立山の雄姿を楽しみにしていたが、残念ながら今の季節は無理とのこと。夜の宴会で「百点満点とは行かないのが旅」と話したところ、仲間の一人から「明日の朝、縄文遺跡を見にいきませんか」との提案。真脇遺跡という名の遺跡で、結構有名だという。こちらは初めてで不明を恥じるしかないが、もちろん二つ返事で誘いに応じる。翌朝早く、車を飛ばして現場にいくと、結構ひろい。驚いたのは、環状木柱列があり、おととし見た青森のそれとよく似ている。時間が早かったので、展示物等はみることができなかったが、誘ってくれた「考古学者」によると、真脇遺跡は、縄文時代前期から晩期に至るとされていて、縄文時代前期中頃から中期末期に至る三内丸山と時期的に重なるという。数千年も前の日本列島に同じような集落群が存在していたと想像するだけで、楽しくなる。そういえば、三内丸山遺跡では、北陸や遠く山陰地方由来の出土品が展示されていたことを思い出した。
 思わぬ形で「めっけもの」に出会えた。遺跡に詳しい者であれば想定内の成り行きであろうが、無知が幸いした。人生はよく旅にたとえられるが、古希まで生き得たことが、なりよりの「めっけもの」かもしれない。

乗れなかった特急サロベツ

2017/01/01 00:00:13

熱狂的な「鉄チャン」ではないけれども、ローカル線に限らず普段乗らないJRに乗るのは大好きだ。この夏、旭川弁護士会から招待を受けて同市を訪れる機会に恵まれたので、前日に空路稚内に赴き、翌日、宗谷本線のサロベツ号で旭川に行く予定を立てた。8月19日稚内到着後、宗谷岬などに立ち、夜は利尻、礼文を臨む日本最北の稚内市内の温泉の銭湯に浸かって大満足。翌日午前中もノシャップ岬にまわるなどしてのんきに行程を楽しんだあと、どこかで時間つぶしをするかなと稚内駅に立ち寄った途端、特急サロベツ運休の張り紙を見てびっくり仰天。その日旭川までいく電車はなく、パスはもともと運行されていないという。幹事役の弁護士に連絡を入れると、できれば当夜の懇親会に出席されたし、ただし、交通手段はタクシーしかないとのこと。是非もなく駅前に駐まっていたタクシーの運転手と交渉したところ、会社と相談され、それなりの料金で出発OKとなった。途中2回の休憩をとって4時間半、距離にして約250キロの長丁場となったが、車窓から見る景色は大好きなドイツを思わせ、なかなか楽しかった。唯一の心残りは目当ての特急サロベツに乗れなかったことだ。遠からず廃線も噂されているとなると、余計に乗りたい気持ちが募るが、当方の気力体力が続くか、そちらの方が心配だ。

人吉温泉再訪

2015/08/01 00:00:18

 6月末、熊本市に出張する機会があったので、少し南にある人吉市に前泊し、温泉に浸かった。同温泉を選んだのにはわけがある。かれこれ35年も前になるだろうか、大分家裁で少年事件を担当していたとき、余罪審判で人吉農芸学院に出かけ、同市内の温泉に入ったが、そのときの気持ちよさが身体のどこかにずっと残っていた。
 おりから梅雨前線が活発で、熊本行きの飛行機も「条件付き運航」という引き返し覚悟のフライトであったが、無事到着。熊本からは昔はなかった九州横断特急に乗った。レトロでゆったりとした雰囲気に包まれ、窓の外を流れる球磨川を堪能していると、まもなく人吉着。駅舎などに往時の記憶はほとんどなく、宿へ急ぐ。宿に着くとすぐに入湯。湯に浸かって感じた。そう、この湯の感触。ちょうどよい温度、まろやかな湯ざわり。「まさにこの湯だ」といいたいけれども、そこまでいうと嘘になろう。でも本当にほっこりとさせる温泉で、小一時間ほど湯船につかっていた。湯から上がると、ビールのサーバーが目に入る。思わぬおもてなしに喜んだ他の客が何倍も呑んだうえ、私に「大将もいっぱいどうですか」と勧めてくれる。勧められた杯を拒むのは私の流儀ではない。つい杯を重ねてしまい、宿の夕食の前に既にしてほろ酔い気分になってしまった。
人吉にはもうひとつ確かめたいことがあった。犬童球渓の顕彰碑である。翌朝の散歩で、地図も見ず、おぼろげな記憶だけを頼りに人吉城跡付近を探してみた。なかなか見あたらず、宿に戻ってもう一度出直そうと思った途端、30メートルほど先にそれらしきものが見えた。足早に近づくと、はたして、犬童の顕彰碑だ。不思議と懐かしさがこみ上げ、ひと気がないのを幸いに、碑に彫られている「故郷の廃家」の歌詞に向かいながら、「幾年ふるさと 来てみれば 咲く花 鳴く鳥 そよぐ風」と口ずさんだ。
 そのときある思いにとらわれた。35年ほど前、この碑をみたとき、いつか再訪してこの碑に再会したいと思ったのでなかったのか。その証拠はなにもないが、確かにそう思ったような記憶がある。確かめる手立てはないけれど・・。

市民とつながって

2015/01/22 06:23:45

引続き、弁護士とロースクール教員の2足のわらじをはいています。
そのほか、裁判官ネットワークの準(卒業)会員として市民の皆さんとの交流も続けています。 忙しい毎日ですが、最近では何といっても、昨秋、当事務所主催の集まりで、「安心なセカンドライフを送るために」という題でお話をさせていただいたことが、いい経験となりました。折あしく雨模様の天気でしたが、それにもかかわらず足を運んでいただいた市民の皆さんに心から御礼を申し上げるとともに、繁忙な日々が続くなかで準備にいそしんでいただいたスタッフ、精力的に広報活動をしていただいた仲間の弁護士の方々にも、あらためて感謝いたします。
市民の皆さんの前でお話するのは楽しいです。
準備をする過程で、懐かしい判決(講演でお話した「女冥利判決」や「青い鳥判決」など)に再会するのも、副産物のひとつですが、それよりなにより、市民の皆さんと身近に接し、自分の裁判官としての体験が皆さんのお役にほんのわずかでも立てることができたと思えることが、このうえない喜びです。
今後も、市民の皆さんとつながる活動を続けるとともに、助言を求めてこられた依頼者のためにも最善を尽くすことをモットーに、頑張りたいとおもっています。本年もどうぞよろしくお願いします。

ポーランドとドイツの旅から

2014/09/13 06:29:10

所属事務所の岩城、中森両弁護士に後れること約1ケ月、私も、アウシュビッツ強制収容所跡を訪れました。これまで、記録映画や書物に掲載されていた写真で、その惨状をそれなりに推測しえた私にとっても、現場で見る収容者たちの写真やガス室の状況、囚人女性たちの髪の毛で作られたというカーペット等の数々は、想像を絶するものというほかなく、言葉を失いました。ポーランド政府が「国立博物館」として保存し、専門ガイドの案内のもと、勝手な行動を許さないという見学行程の意味がすぐにわかりました。そうでもしなければ、途中でいたたまれない気持ちになるか、吐き気を催すか等で離脱する人が少なくないと思われました。  
私がドイツを好きになったのは、高校生のころ。若さゆえにいろんな本を読みましたが、なかでもウイリアム・L・シャイラーの『第三帝国の興亡』(東京創元社)は、読み応えのある5巻ものの大著で、私にとって、どうして人間はかくも愚かな戦争を繰り返すのかを考える糸口になりました。そして何よりショックだったのは、本の冒頭に載っていたゲーテの「ひとりひとりは尊敬に値するが、全体としてはみじめなドイツ民族のことを考えると、しばしば私は悲嘆にくれたものである」という言葉。18世紀中ごろに生まれ19世紀前半に亡くなった文豪がナチスの出現を予想できるはずはありませんが、「どうしてドイツ人がこのようなひどいことを」という疑問は、私にとって最大の難問でした。今回のわずかな見聞でその答えを見出すことはとうてい無理でしたが、反面、珍しい体験をしました。  
2日目のビルケナウ収容所跡(収容施設というより広大な敷地に各収容棟が散在しているという状況)を見学していた最中に、あるドイツ人から「君たちは日本人か、中国人か」と尋ねられました。「日本人である」と答えると、日本語で「この場所でユダヤ人が大量に殺されたなどということを信じているのか」と、まくしたてられました。日本語と片言のドイツ語での応酬の結果、判明したのは、彼の言い分は、例の「『ホロコースト』は作り話だった」と雑誌『マルコポーロ』に書いて大きな批判を受けたN氏の論拠とほとんど同じでした(詳しくはティル・バスティアン『アウシュビッツとアウシュビッツの嘘』(白水社)を参照してください)。私が、それは「アウシュビッツリューゲ」としてすでに排斥されていると反論すると、彼はさらに再反論してきましたが、折から我々のガイドが「時間がありません」と呼びにきたので、話はそれきりになりました。おそらく、いわゆる修正主義者の主張を信奉する一派だとおもいますが、まさにその殺戮現場までやって来て、「ガス室はなかった」と言い張る迫力には、同行の方たちともどもたじろがざるを得ず、いつの時代にもまたどこにでも、そうした言説が存在することをあらためて知らされ、複雑な思いになりました。
 旅行日程の最終日、ベルリンで自由行動の1日を得ましたので、有志3名でザクセンハウゼン収容所にいってきました。同収容所は、絶滅収容所というより労働収容所に当たるものですが、それでも幾千人もの無名の人々が殺され、終戦間近の1945年4月には、囚人が収容所から北方に向かって行進させられ、ソ連軍に発見されるまで数千人が路上で死亡しました(途中の住宅地の中にその慰霊碑がありました)。限られた時間のなかで、急ぎ足の見学になりましたが、犠牲になった収容者のひとりひとりの生まれてから殺されるまでの「証し」が丁寧に展示され、胸をうちました。そこには、ドイツ政府及びドイツ国民が過去に犯した大量殺人の責任を引き受け、ナチズムの問題を「過ぎ去ってはならない過去」として未来に引き継がんとする覚悟が見受けられました。どこかの政府にそうした姿勢を学んでほしいと願いながら、収容所をあとにしました。

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