弁護士 蒲田豊彦の部屋

懐徳堂

2014/09/13 06:25:56

「懐徳堂」は淀屋橋から御堂筋に沿って南へ七〇メートルほど下った東側にあった。いまは日本生命ビルが建ち、そのビルの南側面に小さく「懐徳堂跡」というモニュメントがあるだけだ。  

商都であり、商人の町である大坂(当時は大阪ではなく大坂であった)は商家が抬頭してきて町人たちが劇場、花柳界、そして俳諧や小説などの文芸を発展させ、また、学問や教育に対し関心を抱くようになった。八代将軍吉宗(在職一七一六~四五年)の時代のことである。  

道明寺屋吉左衛門、三星屋武右衛門、備前屋吉兵衛、鴻池又四郎、舟橋屋四郎右衛門は京都の三宅石庵を招いて新しく塾舎を建て、懐徳堂と命名した(一七二四年)。

 そこでの学問は儒教、朱子学、陽明学、仏教、神道をはじめ、西洋の天文や地理にも及んだ。  懐徳堂は吉宗の意向で江戸の会輔堂に対応する形で、一七二五(享保一〇)年準官立の学校となった(このことは、一方で懐徳堂が体制内化されることになる。因みに、当時、大坂は人口約三五万人、江戸は約一〇〇万人であった)。  

私は懐徳堂で育った富永仲基(一七一五~四六年)と山片蟠桃(一七四八~一八二一年)に関心がある(他に「雨月物語」の上田秋成や陽明学の大塩平八郎もここで学んだ)。
 
仲基は儒教、仏教、神道を批判した(「翁の文」、出定後語)が、なぜか支配体制としての社会制度を批判することはいっさい慎み、既成の価値を与えられたものとして受け入れている。純粋に理論に生き、実践がなかったからかも知れない。

 蟠桃は儒教、仏教、神道のすべてを批判し、唯物主義的で、無神論的な考え方に至っている。  このような人物を輩出したところを見ても、懐徳堂が自由な学問の学舎だったことがわかる(この二人のことはまたこのニュースの「人物往来」で書いてみたいと思っている)。

 懐徳堂は明治二年に一旦閉校になり、その後、大阪市中央区本町橋に移り(重建懐徳堂という)、昭和二八年に消滅する。

 懐徳堂の書籍や職員は、大阪大学に移管され、それらの資料は現在も保存されている。  ※加藤周一氏の論文、百瀬明治氏の書、平凡社の大百科事典などを参照した

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