弁護士 蒲田豊彦の部屋

2015年01月

適塾 

2015/01/22 06:21:34

このニュースの前号(三六号)で大坂の「懐徳堂」について書いた。

今回は天保九(一八三八)年、緒方洪庵が大坂の瓦町に開設し、弘化二(一八四五)年に大坂の過書町に移転した蘭学塾「適塾」(現在の住所は大阪市中央区北浜)について述べたい(写真は町屋を改装した当時のままの「適塾」の建物である)。

洪庵(一八一〇~一八六三年)は備中足守(岡山市)の人で、文政九(一八二六)年蘭方医の中天游(京都の丹後の人)の門に入り、天保二(一八三一)年、江戸に出て坪井信道(岐阜の美濃の人)の門に入り蘭学(江戸中期以降、オランダ語によって西洋の学術を研究した学問)を学んだ。天保七(一八三六)年に蘭学修行のため、長崎に赴き、二年で大坂に帰り、先に述べたように適塾(この名前は洪庵の号「適々斎」からとった)を開いたのである。

適塾は、我が国における唯一の蘭学塾の遺構として重要であり、国の史跡・重要文化財となっている。

適塾における教育の中心は蘭書の会読であった。

洪庵は多くの蘭書を翻訳しているが、勉強に使われたのは原語(オランダ語)で書かれた蘭書だったと思われる。

当時、適塾には蘭仏辞書が一つしかなく、その辞書は予習をする塾生の引っ張り凧であったと言われている。

講義は二階の塾生大部屋で行われたが、塾生の塾頭を筆頭に成績の良い順番で講師に近い席に座ることができた。

塾生たちは蘭書の原書を会読したり、講師の講義を受けるなかで、西洋の合理主義や科学的な論理を学んでいったのである。また、医学の勉強もしていたかも知れない。

塾生は北海道から鹿児島まで、全国から入門しており、延べ一〇〇〇人に達した。特に佐賀、筑前、越前、土佐、宇和島、足守の各藩などは藩主の命によって入門させたほど適塾の評価は高かった。

適塾は佐野常民(佐賀藩、日本赤十字社の創立者)、大鳥圭介(播磨出身、政治家)、橋本左内(福井藩、幕末の志士。安政の大獄に連座し斬罪)、大村益次郎(周防出身、陸軍の創立者)、福澤諭吉(中津藩、思想家、教育家)などを輩出した。

また、洪庵は、蘭学のほか蘭方医としても活躍し病理通論など、夥しい医学書を著し、天然痘予防の種痘を我が国に導入し道修町に「除痘館」を設立するなどの業績を挙げた。

文久二(一八六二)年、江戸に出て幕府奥医師と医学所頭取を兼任したが、文久三(一八六三)年、多量の喀血によって急死した(五四歳)。

明治二(一八六九)年、大阪府が洪庵の嗣子緒方惟準らが参加する医学校を設立し、その後、これが現在の大阪大学医学部に承継されている。

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