事務所ニュース「いずみ」

人物往来

石田 梅岩

私はその人がどう考え、どう生きたかに強い関心がある。

丹波の聖人といわれた石田梅岩は、江戸時代の中期(8代将軍吉宗のころ)に生きた「心学石門」の祖といわれる人物である。

梅岩は貞享2(1685)年、丹波国桑田郡東掛村(今の亀岡市東別院町東掛)に生れた。

11歳で京都の商家に丁稚奉公に出て、5年ほどで生家に帰り、農事を手伝い、23歳(1707年)で再び京都の呉服商に奉公に出た。呉服商(黒柳家)での奉公は23年間(43歳)続いた。

この間、奉公をしながら梅岩は「自分とは何か」、「人間とは何か」、「人の人たる道とは」といった観点で神道に興味を抱き、勉学に励み、儒家の古典や朱子学の書を読み、老荘や仏教など、さまざまな分野の知識を取り入れていった。梅岩は独学であり、のちに「隠遁の学者」小栗了雲に出会うまで師を持たなかった。

そのようななか、1726年、梅岩は「日夜寝食を忘れて」がんばり、「ある夜、深更におよび」、雀の鳴く声を聞いて「悟り」に達し、翌年、商家の奉公を廃して「心学」に専心したのである。

心学石門とは、「人間の本性を追及する学問、つまり、人が生きていく上で必要な心の在り方を問い、これを心の修行として実践する学問」であり(「今よみがえる石田梅岩の教え」より)そのキーワードとなるのが、「正直」、「勤勉」、「質素」、「倹約」、「忠」、「孝」などで、梅岩はこうした心の修行を積み本分を尽くせば、自己の平安、家族の幸福、社会の安定に大きく貢献できるとしたのである(もちろんそれ以外のことも沢山言っているが)。

梅岩の教えは、その著「都鄙問答」、「倹約斉家論」に詳しい(筆者も全部は読んでいない)。梅岩の教えは当初、商家の人たちに受け入れられ、その後、公家や武家の人たちにも広がっていった。

梅岩の教えは実践することを強調しており、「学ぶことは行うことである」と言っている。これは大切なことであると思う。

商家の手代で独学の梅岩に対し批判があったが、この批判(儒者)に対し、学問は文字を知ることではなく、「心を知る」ことであるとして、儒者たちを「文字芸者」と反撃している。

梅岩は延享元年(1744年)60裁で亡くなったが、梅岩の教えは手島堵庵によって受け継がれ、柴田鳩翁(特に心学を公家、武家に広めた人)、中沢道二などの有能な指導者を輩出した。

道二は「天地の常とは即ち、道のこと」と説き、「雀はちうちう、烏はかあかあ」と鳴き、「梅の木に梅の花が咲き」、「柿の木に柿のできる」こと、つまり、その形のとおりにしているのが「道」であると説いている。私はこの言葉は心学の到達点だと思っている。大いに学び実践したいものである。

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