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戦後50年 ─ 東南アジアを訪問して

一 昨年7月30日から8月7日まで、同僚の蒲田弁護士と一緒に「戦後50年を考えるマレーシア・シンガポールの旅」に参加した。この旅は、群馬県の弁護士や学校の先生たちが中心となって計画し、シンガポールの新聞のコラムニスト、陸培春(ルー・ペイチュン)さんが案内役をしてくれたツアーで、日本軍による侵略の爪あとをたどり、また日本企業の公害輸出の実態に触れて、改めて日本国憲法と真の国際友好を考えようというものてあった。

二 マレーシアでは、(1)ベラ州のブキメラ村にあるARE(日本の三菱化成が資本参加した合弁企業)の放射能産業廃棄物の不法投棄の現地調査、(2)クアラルンプールで最大発行部数を誇る星洲日報社や太平洋戦争50周年記念準備委員会メンバーとの懇談、(3)ジェレブ県ティティ村とクアラピラ県カンウェイ村での日本軍の虐殺や拷問などの実態調査、(4)ジョホールバルの731部隊の病院跡である精神病院砲門などを行い、またシンガポールでは各種の記念碑やセントーサ島の戦争博物館の見学などを行った。

三 私はこの旅で、日本の戦争責任というものが極めて具体的なものであり、かつ、50年を経た現在でも未解決のまま現存しているということを知らされた。
 特にティティ村、カンウェイ村での住民からの聞き取りは、余りに衝撃的であった。ティティ村の遺族会代表の老婦人は、1470人の村民が虐殺され、生存者はわずか10人ほどで、自分は2、3日隠れていて助かったと話してくれた。カンウェイ村の男性は、抗日ゲリラのことを知っているのではないかと拷問され、両手と両足の指を全部切り取られていた。また別の男性は、20~30ずつ虐殺されることになり、親城と一緒に連れていかれ背中から5ケ所を刀で刺されたが、父と伯父の死体と一緒に2日間過ごして助かったという。そして彼らは口々に、死の恐怖と親族の虐殺、自分の一生を台無しにされたことに対する具体的な補償を私たちに訴えた。
 この時初めて私は、自分が加害者である日本人の一人であることを自覚し、心から謝罪したい、政府に補償させたいという欲求に駆られた。しかし、私ができたのは、彼らに対してわずかなカンパをすることと、指のない手を黙って握りしめることだけであった。被害の実態から出発し、その救済を求めて闘う弁護士でありたい私にとって、この体験は辛く、また重いものであった。

四 ところで、日本に帰ればよき夫であり父である日本人が、なぜこれほど残虐なことができたのであろうか。戦争というものはもともと残虐なものであるとも言えようし、日本軍国主義が最も野蛮な部類に属するものであったということもできよう。
 しかし、本当に我々が考えるべきだと思うのは、あのころの日本人と現在の日本人は、果して根本的なところで変わっているのか、ということである。
 すなわち、日本政府は現在もなお侵略戦争について心から反省も謝罪も補償も行わず、靖国神社には閣僚の多くが参拝Lているし、企業活動についても、 AREの例に見られるように、日本はアメリカの核の傘の下で形を変えた経済的侵略を行っているのではないか。また、24時間闘えますか」というCMに象徴される、長時間過密労働やサービス残業を「率先」して行う「企業戦士」は、当時の絶対主義的天皇制のもとでの「帝国軍人」とどのくらい遠いがあるのであろうか。

五 昨年秋以来、沖縄での米兵による卑劣な少女暴行事件がきっかけとなって、日米安保体制を問う世論が沸き起こっている。しかし、日本軍がアジアの人々に対して行ったことはこの比ではない。私たちは沖縄での米兵の蛮行に怒れば怒るほど、このことを知らなければならない。そして、政府に対して侵略を侵略として認めさせ、謝罪と必要な賠償を行わせることは不可欠の課題である。そうしてはじめて、私たちの反戦平和の思いも確かなものになるし、平和を願う世界の人々との連帯した闘いが可能になると思うのである。

六 それにしても、どちらの国も大変美しい国であり、また様々な肌の色の人々が、互いに尊重しあいながら共存している国際国家であった。意外なことに若者の多くが携帯電話を持ち、街は活気に溢れていた。多くを学び、考えさせられた旅行であった。

弁護士 岩城 穣

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第2号(1996/1/1発行)より転載

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