事務所ニュース「いずみ」
HOME > 事務所ニュースいずみ > 古典をたずねて > 世阿弥 能に寄せて その二

古典をたずねて

世阿弥 能に寄せて その二

 世阿弥は幼名を鬼夜叉と言い、結崎座(のちの観世座)の棟梁である観阿弥の三一歳のときの子である(世阿弥は一三六三年生まれと言われている)。
 観阿弥が演じ、世阿弥も舞台に立った東山、今熊野の能で義満(三代将軍、このとき一七歳)の目にとまり(世阿弥一二歳)、以降、観阿弥、世阿弥ともども義満の愛顧を受けることになる。
 義満は観世座の能をよく見物したばかりでなく、少年の世阿弥を祇園会の桟敷に同席させたりした。世阿弥は美童として、当時の小児愛翫の趣味にも適合したのである。このようなことから、公卿たちの間では猿楽が「乞食所行」であるのに、将軍が身分の低い役者を近侍させているとして非難されていた(押小路公忠「後愚昧記」)。猿楽の役者の身分は右にも述べたように、高いものではなかったが、世阿弥は武士権力の中心に接近することができたのである。
 また、そのころ世阿弥は、関白二条良基に謁して芸を披露し、藤若の名を受けた(二条家は五摂家のうちの一つで、いまも京都御所の北側、同志社女子大学の構内の東南角に邸宅跡がある)。
 良基は当時の連歌を集めた「?玖波集」の選者であり、やがて太政大臣にもなった人物である。良基は古典、和歌、連歌、有職故実に優れ、管絃、蹴鞠などもよくした公家文化の頂点に立っていた。
 良基はある消息文のなかで、藤若は能はおろか、蹴鞠、連歌にも堪能であり、顔立ちもよく、蠱感的で名童であると言っている。このように、世阿弥は武士の権力者や身分の高い教養人と接触するなかで、高い教養を身につけ、それらが世阿弥の才能と努力によって花開いていったのである。世阿弥の知識や教養は、良基のそれを凌駕するほどであったと言われている。
 なお、観阿弥や世阿弥の「阿弥」とは、時宗(一遍が開宗した宗派で、日本浄土宗の一つ。阿弥陀経を所依とし、平生を臨終と心得て念仏することを旨とする)の号である。「阿弥」号を称すれば、一応、俗と離れたことになり、現世の身分制にしばられることなく、貴顕の人々と平等に座を同じくすることができた。連歌師や工芸家、造園家に至るまで、「阿弥」を名乗るものが多かった。
 世阿弥は右に述べたように、平安朝の貴族社会や貴族文化に触れるなかで、能の題材として、伊勢物語(例えば「井筒」)や源氏物語(例えば、「葵の上」)、そして平家物語(例えば、「敦盛」、「清経」。なお、平家の武将たちは平安朝の貴族社会ないしその文化のなかに組み込まれていた)など、大衆性を犠牲にしても優美な貴族的文化を取り入れていく。
 また、観阿弥は従来の猿楽が平板な小歌節風であったものに、拍子を主とする軽快なリズムの曲舞節を取り入れたり、物まね(登場人物に扮し、それらしく姿態や行動を再現し、物語性を重視する)を第一とした大和猿楽のなかに近江猿楽の特色といわれた幽玄な舞歌の芸を取り入れた。そして、世阿弥はこの観阿弥の作り出した新しい能を承継し、発展させていく。この新しい猿楽能の魅力を認めたのが、新時代の統治者である義満や公家たちであった。この観阿弥や世阿弥の成功は、観世座のみならず、猿楽能全体の栄光として世に受け入れられていったのである。近江猿楽の名人であった日吉座の犬王(道阿弥)も観阿弥のこれらの実績から、観阿弥を生涯、尊敬した(申楽談儀)と言われている。
 次回は夢幻能を中心に述べたい。

参考
 「世阿弥芸術論集」 新潮日本古典集成
 戸井田道三著 「観阿弥と世阿弥」 岩波新書
 金井清光著 「花伝書新解」 明治書院
 加藤周一著 「日本文学の変化と持続「世阿弥の戦術または能楽論」」 平凡社

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第29号(2011/1/1発行)より転載

ページの先頭へ戻る