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古典をたずねて

世阿弥 能に寄せて その一

 私は四〇代のころ、能にとりつかれ、能楽堂によく通ったことがあった。大槻能楽堂、京都の観世会館、興福寺の塔影能、大阪城能にはよく行ったものである。いまは忙しさもあって、ときどきしか能を見ることができない。
 能のもつ、あの幽玄で抽象的で、しかも典雅な舞や曲音は、私を魅了してやまない。
 能に関心をもつなかで、私は世阿弥と出会い、彼が能を完成させ発展させていったことを、その伝記や著述や口伝などで知り、世阿弥に大きな憧憬を抱くようになった。
 私は世阿弥のことを中心に能について何回かに分けて語ってみたい。
 まず能の起源や成立についてみる。
 能は日本に農耕が伝わったときからの、儀礼(神事)の一つであり、それが娯楽とも結びついて、開花発展したものと考える。
 前漢の武帝(前一五九~前八七年、日本では弥生時代)のころ、長江中流の南域の山地に夜郎という一族(中国の南西、今の貴州の西境にいた少数民族。漢代の西南夷の一「広辞苑」)が王国を作っていたが、武帝は財宝を一万の兵に持たせてこれを買収し、川を下って広東域を襲い、ベトナム半島にまで侵攻する。ところが越の国の反撃にあい、山地民である夜郎は帰る道を失い、一部は船で農耕化に力を入れていた日本に逃げた。日本に渡ったこれらの貴州、雲南地域の山地民が能という芸能を伝えた。この民族は漢民族とは異なるチベット系の人たちであった。今日のチベットにはそれとつながっているとみられる仮面劇が残り、夜郎のいた貴州山地域にも能に通じる仮面劇が「ノウ」の名で伝えられている。
 このように、古代チベット系の山地民族の一部が日本に渡り、それが日本の山地民族となって祭りや農耕と結びつけて能を伝え発展させてきたのである。(立石巌著 「西行・世阿弥・芭蕉」)
 他方、世阿弥の風姿花伝の第四「神儀にいふ」は、能の起源を次のように言う。
 「申楽神代のはじまりといふは、天照大神天の岩戸に籠り給ひし時、天下常闇になりしに・・・神楽を奏し細男をはじめ給ふ。なかにも天鈿女の御子すすみ出で給ひて榊の枝に幣をつけて声をあげ、・・・神かかりすと謡ひ舞ひかなで給ふ。」とし大神が岩戸を開けて国土がまた明るくなったという有名な記紀の物語りの場面を「その時の御遊び、申楽のはじめといふ」としている。そして、引き続いて、聖徳太子(五七四~六二二)が天下に少しもめごとあった時、日本の神代や印度の吉例にしたがって六十六番の物まねを秦河勝に命じ六十六の面を与え、河勝が内裏の紫宸殿でこれを演じたところ、天下が治まり国土が安穏になった。これを申楽と名づけたとされている。
 平安京においては村上天皇の御代(在位九四六~九六七)に日本の神代における猿楽舞を演ずると国は穏やかに民は静かになり寿命も長くなるとし、天皇は猿楽をもって天下泰平の御祈祷とし河勝の子孫である秦氏安に六十六番の猿楽を紫宸殿で演じさせた。これらが能の始まりである。
 その後、春日神社の神事に従事した大和猿楽の外山(宝生流)結崎(観世流)坂戸(金剛流)円満井(金春流)の大和猿楽四座、江州の日吉神社の神事に従事した山階、下坂、比叡の三座などが生まれ発展していくのである。

参考文献
 立石巌著「西行・世阿弥・芭蕉‐自殺者の系譜」ぼんブックス
 金井清光著 「花伝書新解」明治書院
 戸井田道三著 「観阿弥と世阿弥」 岩波新書

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第28号(2010/8/1発行)より転載

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