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古典をたずねて

歎異抄(その四)ただ念仏して

 歎異抄の第二章は、親鸞上人の法然上人への絶対なる敬意の表白とただ念仏することがしょう正しん信の道であることが語られている。
 親鸞上人は言う。十余ヶ国の境を越えて訪ねて極楽往生の道を問いただそうとする人々に対して「私が念仏以外に往生する道を知っていて経論などに書かれた文章を知っているだろうと思っているとしたらそれは大きな誤りである」。もしそう思うならば、「南都・北嶺(奈良六宗や比叡山延暦寺のこと)にもゆゆしきがく学しょう生たち、おほくおわ座せられさふらふなれば、かのひとにもあひたてまつりて往生のよう要よくよくきかるべきなり」と。
 そして、親鸞上人にとっては、「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしとよきひとのおほせをかふりて信ずるほかに別の子細なきなり」(傍点は筆者)と言い切っている。
 そして、続いて親鸞上人は言う。
 念仏は浄土に生れるたね因であろうか、また地獄に落ちるごう業であろうか。よくわからない。
 たとえ法然上人に「すかされまひらせて(だまされて)念仏して地獄におちたりともさらに後悔すべからずさふらふ」と。そのわけは、自力の修行を励んで仏になるべき身であれば念仏をして地獄に落ちるのであれば後悔もありましょうが、いかなる修行も及ばない身であってみれば結局地獄は私の定められた住家なのである。ここには親鸞上人の法然上人への強い信頼をうかがうことができると思う。
 弥陀の本願が真実であるならば釈尊の教えにうそはないはずである。そうであるならばぜんどう善導(中国の浄土教を大成した人)のことばにもいつわりがないはずである。さらにそうであるならば、法然上人(善導の教えを学び日本浄土教を開いた)のおことばもいつわりがあろうはずがない。だから、「親鸞がまふすむね(申す旨)、またもてむなしかるべからずさふらふか」。
 要するに、私の信心は右のようなものである。そして親鸞上人は、このうえは念仏をとって信じられるかそれともそれをすてて他の教えによられるかはみなさんのご判断次第であると言うのである。以上が歎異抄の第二章の要約である。
 地獄におちても悔いはない。「ただ念仏して」の生活こそ仏になる(成仏)道である。「念仏成仏これ真宗」(浄土和讃)である。
 浄土教は、救済教ではない。救われるというのは悟りを開くことであり「仏に成る」ことである。
 念仏者は一人残らず成仏への道を歩む者である。
 念仏者は菩薩道に生きる菩薩である。〔早島鏡正、「歎異抄を読む」(六〇頁ないし七〇頁を引用)講談社学術文庫〕

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第23号(2008/1/1発行)より転載

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