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古典をたずねて

歎異抄(その三)弥陀の本願

 歎異抄は親鸞の弟子であるが、親鸞没後三〇年ほどして「先師ののに異なることを歎き」(歎異抄の序文)、「故親鸞聖人のの、耳の底に留まるところ、か之をす」(同序文)として書いたものである(鎌倉時代の中期)。
 すなわち、歎異抄は、悪人正機の考え方など当時、親鸞の教えが門徒の間で誤解され、法門に異端が生れてきている状況を歎いて、親鸞から(師が弟子に面と向かって口伝えに法門の奥義を授けること)された唯円がなんとしても師の正しい教理を伝えたい〔へに同心行者の不審をぜんが為なり(同序文)〕との思いで書き表したものである。
 歎異抄は次のような構成となっている。
 「序文」…唯円の嘆きや、唯円が歎異抄を書く動機などが八六文字の漢文で書かれている。
 「第一章から第一〇章」…専ら親鸞の法語が示され、信心と念仏の本義が明らかにされている。
 「別序」…異端の考えがあることを歎き、第一一章から第一八章で唯円が異端を批判するリードの部分である。
 「第一一章から第一八章」…唯円のもろもろの異端に対する批判である。
 「後序」…全体の結びで、唯円が念仏をする人々のなかで信心の異なる人のないように念願している。
 本稿では、紙幅の関係で全章に触れることはできない。筆者の独断で、章やそのなかの一節を取り上げて述べてみたい。
 序文については先に述べたところにゆずり、第一章から述べたい。
 第一章は親鸞の教えの根幹である「阿弥陀の本願」、「信心」、「念仏」及び「善悪」の問題を述べている。
 「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて住生をばとぐるなりと信じて念仏まふさんと思いたつこころのおこるとき」仏は人をその光明のうちに救いとってお捨てにならないご利益を人々にお受けさせになる。
 阿弥陀仏の本願は、老人、若者、善人、悪人も何らわけへだてをしない。ただ、本願を信心することが肝要である。
 なぜならば、罪悪が深く、重く、煩悩が盛んな人を救うためにたてられたのが本願であるから。本願を信ずるには、他の善事は必要ではない。念仏に勝る善はないのだから。悪でさえ怖れてはいけない。弥陀の本願を防げるほどの悪はないのだから。
 以上が第一章の要約である。
 弥陀の誓願は、本稿の「その二」でも述べたように、弥陀が法蔵菩薩であったころ、衆生を救おうと四八願をお立てになり、如来になられたのであり、そ人間の思量を超えた、絶対的なものであり(「序文」にある「誓願不思議」の意味)、その本願を信じ、念仏を唱えれば救われるというのである。
 この信心は、往生の誓願を信ずるというものであり、念仏とともに一番大切なものである。
 また、救いも単に浄土に救われるということではなく、「覚りを開くこと」であり、成仏することである(早島鏡正「歎異抄を読む」)。さらに言えば、信心は自らが弥陀を信じるということを越えて、信じること自体が阿弥陀仏の力によるのである(阿満利麿「柳宗悦」)。
 他力本願というものは、ひよわな、無気力で受け身のものではなく、自主的で積極的、能動的なものと思う。
 善も悪もなす凡夫が阿弥陀仏を信じて、凡夫のままでそのありのままの姿で救われるというのである。
 凡夫は法然や親鸞によって、はじめて仏となる道を見い出したのであり、日本宗教史上、さらにはインド以来の仏教史上でも画期的な意義をもつ宗教の誕生である(阿満利麿前掲書)。
 次号は、「ただ念仏して」(二章)と「悪人正機」(三章)について触れたい。

参考文献
 「歎異抄」 小学館日本古典文学全集
 「歎異抄を読む」 講談社学術文庫 早島鏡正
 「親鸞」  同右 笠原一男
 「歎異抄」 同右 梅原 猛
 「柳宗悦・美の菩薩」 リブロポート阿満利麿
 (これらのうち、「歎異抄を読む」がわかりやすく、私の推薦する本である)

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第22号(2007/8/1発行)より転載

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