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古典をたずねて

歎異抄(その二) 悪人正機の思想

 「歎異抄」について書く前に、親鸞の開いた浄土真宗の一端について見ておきたい。「歎異抄」の理解に資すると思うからである。

 そもそも、鎌倉仏教の特徴は、奈良仏教や平安仏教を乗り越えて、選択(せんじゃく)、専修(せんしゅう)、易行(いぎょう)ということである。すなわち、鎌倉仏教は、多くの仏の救いのなかから、ひとつの仏の救いを選び、それを専ら修行し、どのような人間でも実践できる易行というのが特徴である。法然、親鸞、一遍は、諸仏の救いのなかから、弥陀の本願に救いを求める念仏を選び、南無阿弥陀仏を唱えることによって、すべての人間が救われるという専修念仏の立場を選んだのである(笠原一男著、親鸞、講談社学術文庫)。同様に、栄西と道元は座禅に悟りを得る道を見い出し、日蓮は法華経を最高のものとして南無妙法蓮華経の「題目」に救いを求め得るとしたのである。
 法然は、弥陀の本願(誓い)を信じ、南無阿弥陀仏と口称(くしょう)念仏することによって浄土に往生できるとしたが、親鸞は往生のきっかけを「信」に置き、阿弥陀仏の本願を信心したときに、すでにその人は往生し、成仏できると説いた。

 では、「弥陀の本願」とはどういうことであろうか。
 浄土三部経の中の一つである無量寿経〔浄土三部経(上)岩波文庫〕には、次のように説かれている。
 阿弥陀仏が如来になられる前は、法蔵菩薩(ダルマーカラ)であられたが、世自在王仏(せじざいおうぶつ)(ローケーシヴァラ・ラージャ如来)から無量の仏国土の仏(如来)になるようにと言われたとき、四十八の願い(四十八願)をたてられ、それが実現されないときは、私は如来にならないと言われた。四十八願の中の第一八願で、法蔵菩薩は「もしわれ仏(阿弥陀仏)になることを得んに十方の衆生が至心(この上ない誠実な心)に信じ願って、わが国(浄土)に生れんと欲し、十たび念ずるも、もしわが国(浄土)に生ぜずんば(生れなければ)われは正覚(しょうかく)を取らじ(私は仏になりません)」という誓いを立てられた。
 そして、いま現に法蔵菩薩は阿弥陀如来となられ、極楽浄土を完成しておられるのであるから、弥陀を念ずるものは、必ず救われるというのである(中村元著、東洋のこころ、講談社学術文庫)。

 親鸞上人は、この第一八願を非常に重んじられた。叡山で二〇年に亘って修行され、なお、悟りの道を得られなかった親鸞は、京都の六角堂に百ヶ日籠り、これから進むべき道を祈っていたところ、九五日目の明け方に、聖徳太子のお告げにあい、極楽往生の縁に会うべく法然上人を訪ね、再び百ヶ日の間、法然上人のもとに通い、善人も悪人も同様に救われる道を教えられたのである。親鸞上人は、法然上人に付いて行き、「念仏以外の道では往生できない。たとえそれが地獄への道であっても、後悔はしません」と言い切っておられる。

 親鸞は、悪人正機(あくにんしょうき)(悪人こそ往生できる)、不断煩悩得湟槃(ふだんぼんのうとくねはん)の救いを、弥陀に求め、絶対他力の念仏を説かれた。
 煩悩具足の悪人親鸞から、煩悩具足の仏親鸞へと変身を遂げられたのである。
 この悪人正機の思想が、人々に異なって(誤って)捉えられ、それを歎じられるなかで「歎異抄」の名著が生まれることになるのである。

 次回から「歎異抄」の話に入っていきたい。
 (この小さなコーナーで、仏教という難しいテーマを取り上げてしまい後悔している。言いたいことがたくさんあって、とても書き切れない。しかも、誤りがあるかもしれない。しかし、何とか次回以降も最後まで考えていることを書いていきたいと思っている。)

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第21号(2007/1/1発行)より転載

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