事務所ニュース「いずみ」

古典をたずねて

雅子内親王と敦忠

 この「古典をたずねて」を書くに当たって、体調があまりよくないので少し軽いタッチで認めることにする。

百人一首に次の有名な一首がある。

逢ひ見てののちの心にくらぶれば
    昔はものを思はざりけり

        「拾遺集」巻十二、恋歌二
(あなたに逢ってちぎりを結んでのちの今のこの切ない気持ちにくらべると、お目にかかる以前の物思いなどまったくものの数ではありません)

 この歌は中納言藤原敦忠が雅子内親王と逢った後に詠んだものであり、二人が出会ったのは延長7年(929年)敦忠24歳、雅子20歳ころと推定されている。
 この「逢ひ見ての」は単に二人が逢っただけなのか、それとも逢ってちぎりを結んだのか、どちらであろうか。このことは読者のみなさんの想像におまかせします。

 雅子内親王は、第60代醍醐天皇の皇女である。
 他方、敦忠は、あの菅原道真を失脚させたことで有名な左大臣藤原時平の三男で三六歌仙の一人である。
 当時は、内親王の臣下との結婚は許されなかった。
 そこに二人の恋の苦しさがあった。

下にのみながれわたるは
    冬川の氷れる水と我となりけり

        「敦忠集二九」
(表面に出ないで、こっそり流れ続けるのは冬の川の氷の下の水と、かなわぬ恋に苦しむ私とだけです)

返し

心から人やりならぬ水ならば
    ながれわたらむこともことわり

        「敦忠集三〇」
(それもあなたの心から出たことです。他人のせいではない水(恋)なのですから流れ続けるといわれてもどうしようもありません)

 このように、雅子は最初はつれない返事をするが、そのうち段々と二人の気持ちが高まっていく。
 歌を贈るのは、男から女へ、臣下から内親王へというのが通常であるが、雅子は逆に敦忠へ歌を贈るという非常に大胆な行動に出たりする。

宮より

いにしへのこと語らひに
    時鳥いづれの里に長居しつらむ

        「敦忠集六八」
(昔の恋をもとのように取り戻そうと言って浮気な時鳥のような人、どこの女の所に長居していらっしゃるの)

返し

鳴かで年経にける里は
    時鳥道のほどだにおぼえざりけり

        「敦忠集六九」
(とんでもない。鳴きもせず、何年も寄り付かなかった女の所など、この時鳥は道だって覚えていません)

 しかし、雅子は醍醐天皇から朱雀天皇への譲位に伴い、承年元年(931年)伊勢神宮の斎宮に卜定される。
 その後、承年6年(936年)雅子は斎宮を退下する。

 祓えをする難波の長柄の橋に寄せた二人の贈答歌。

あらたまの年の渡りをあらためぬ
    昔長柄の橋と見やせし

        「敦忠集一二一」
(年月は改まっても渡ることを改めない、昔ながらの長柄の橋と見て通りましたか)

橋柱昔ながらにありければ
    尽くる世もなくあはれとぞ見し

        「敦忠集一二二」
(朽ち残った長柄の橋柱は昔ながらに残っておりましたので、私たちの仲と同じだとしみじみと見ました)

 しかし、この恋は破れる。そして雅子は結局敦忠の従弟師輔(忠平の二男)と結婚(降嫁)し、師輔との間に四人の子を生んでいる。
 岩佐美代子「内親王ものがたり」岩波書店、福田清人「百人一首物語」偕成社などを参照した。

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第19号(2006/1/1発行)より転載

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