事務所ニュース「いずみ」

古典をたずねて

土佐日記

 土佐日記を書くにあたって、土佐日記がどれぐらい知られているかまわりの人に聞いてみた。作者が紀貫之であること、男が女になって書いた日記であること、旅の日記であることは知られているがその内容についてはほとんどの人が知らないという答であった。しかし、古典のなかでは土佐日記はこれでもよく知られている方かなと思いつつ、その内容についてどの辺まで書こうかと悩みながらこの原稿を書いた。

 土佐日記は「男もすなる日記(にき)といふものを、女もしてみむとして、するなり。」という有名な書き出しから始まる日本における最初の仮名文の日記である。

 作者の紀貫之は醍醐天皇や朱雀天皇の治政(9世紀から10世紀)のころに生きた人であり、その最高位は従四位下で木工権頭(むくのごんのかみ)(木工寮の長官)として余り身分は高くなかった。貫之は従兄の紀友則(きのとものり)らと勅撰和歌集である「古今和歌集」の撰者として抜擢されるほど和歌に長じ、文人としての力量を持った人であった。貫之の「人はいさこころもしらず故郷(ふるさと)ははなぞむかしのかに匂ひける」(「古今集」春上、四二)の和歌は百人一首にも選ばれ友則の「久堅のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ」(「古今集」春下、八四、同じく百人一首に選ばれている)とともに有名である。

 土佐日記は貫之が土佐守(とさのかみ)〔守は国司(地方官の長官)のことであり今の知事にあたる〕として現地(今の高知)に赴任し五六年の任期を終えて都(京)へ帰るときの50日ほどの間のことを書いた旅日記である。

 日記は三部構成で第一部は出発(12月21日)から元日までで土佐の浦戸湾(うらどわん)を中心として後任の守や国人(くにびと)を登場させ、第二部は1月2日から2月5日までの風波の荒い大海と船旅の主導権を握る船頭と船中の人々を海賊への恐怖や室戸岬、鳴門海峡の難所の航行をえがき、第三部は2月 6日から16日までやっと淀川に至り京の我が家に到着するまでで出迎える都の人々や留守番の隣人のことが、その変わり身の早さなどについて批判的に書かれている。

 この日記の主題は(1)自然は変わらないが人は時に応じて変わりやすく信頼しがたいものであること、(2)全編に57首も登場してくる和歌にもみられるように貫場してくる和歌にもみられるように貫之のいだいていた歌論の披瀝、(3)京から連れて行って土佐で失った女児に対する切々たる変わらない親としての情である。

 特に女の子については「死じ子、顔よかりき」(死んだ子はきりょうよしだった)と言い、他人が「玉ならずもありけむを」(玉というほどでもなかったろうに)と言うことに対し反論している。そして、女の子に対する思いはそれほど長くない日記の中に6回も記述され歌も何首か詠まれている。そのうちの一つ。

忘れ貝拾ひしもせず白玉を
    恋ふるをだにもかたみと思はむ

(あの子を忘れるために忘れ貝を拾わないでおこう。白玉のようなあの子を恋しく思う気持ちをかたみと思おう)

 日記のなかには万葉集や伊勢物語の歌や阿倍仲麻呂の歌が触れられるなど貫之の教養の高さが忍ばれる。また、文徳(もんとく)天皇の第一皇子の惟喬(これたか)親王や在原業平のことも書かれている。

最後に珍しいと思われるので日記の中に出てくる船頭たちの歌う船歌を紹介しよう。

「春の野にてぞ、音(ね)をば泣く、わが薄(すすき)に、手切る切る、摘(つ)んだる菜(な)を、親やまぼるらむ、姑(しゅうとめ)や食ふらむ、かへらや。

夜(よん)べの、うなるもがな、銭(ぜに)乞(こ)はむ、虚言(そらごと)をして、おぎのりわざをして、銭も持て来(こ)ず、おのれだに来(こ)ず。」

(春の野でサ、声出して泣くヨ、おれがすすきで、手を切りながら、彼女に摘んでやった菜っぱをサ、おやじが欲張るやら、しゅうとめばばが食うやら、カエロウヨ ゆんべの、あの子に会いたいよ、銭取ってやろう、うまいこといって、掛け買いしてサ、銭も持って来ず、顔さえ見せぬヨ

〔松村誠一氏訳〕)

 船頭たちが この歌を歌いながら船を漕ぎ舵を取る姿が目の前に浮かんでくる。

 私のこの小文がみなさんの土佐日記を読まれるきっかけになれば幸いである。

【小学館の日本古典文学全集 松村誠一校注・訳「土佐日記」を大いに参照、引用させていただき、角川文庫 島津忠夫訳注「百人一首」を参考にした。左に掲げる「土佐日記 旅程地図」は前者に掲載されているものをそのまま転載させていただいた。】

土佐日記

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第18号(2005/1/1発行)より転載

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