事務所ニュース「いずみ」

古典をたずねて

天徳内裏歌合

  この歌合は村上天皇(62代天皇)の御代の天徳四年(960年)3月30日に、延喜13年(913年)の亭子院(ていじのいん)歌合にならい、さらに儀式を整えつつ清涼殿で催された歌合で、世に天徳内裏歌合といわれ、後世の歌合の模範となった。
 歌合とは、歌人を左右に分け、その詠んだ和歌を左右一首ずつ組み合わせて判者が優劣を判定するもので、数番を番え、勝の多い方が全体としての勝者となるという、典雅でしかも激しいゲームである。
 歌合は平安初期以来、宮廷人や貴族の間で流行した遊戯である。初期のころは遊びであったが、徐々に政治性を帯び、時には政争の具となり、権力を有する者は有力な歌人を雇ってまで歌合に勝利しようとした。
 さて、天徳歌合は、当時ともに権勢を誇った貴族同士である藤原家と源家との間で天皇の御前での戦いとして催された(私の記憶が定かではなく、この歌合が藤原家と源家の戦いであったかどうかははっきりしないが、一応ここでは上述のように記しておく。まちがっていればお詫びしなければならない)。
 番える歌は20番。歌題は霞、鶯(2) 、柳、桜(3) 、山吹、藤花、暮春、初夏、郭公(2) 、卯花、夏草、恋(5) の12題。20番の判者は左大臣実頼。作者は藤原朝忠、源 順(みなもとのしたごう)、大中臣能宣、中務(なかつかさ)、藤原元真、壬生忠見(みぶのただみ)、平兼盛(たいらのかねもり)ほか当代一流の歌人たち(平凡社大百科事典)。  兼盛は藤原側、忠見は源側。ともにその力をかわれて参加した歌人である。
 この歌合は19番まで進み、藤原方が圧倒的リードのなかで20番目の歌題「恋」の歌で、しかもお互いに力のある兼盛と忠見の歌が番えられた。トリの一番が大きな勝負であることは昔も今も変わらない。兼盛も忠見もこの歌合で成果をあげ、官位のうえで、より高い地位に登用されたいとの思いがある。
 二人が詠んだ歌は次のものである(いずれも百人一首のなかの秀歌として名高い)。
 天徳内裏歌合

しのぶれど色に出でにけり我恋(わがこひ)は
    物や思ふと人の問ふまで
(兼盛)

恋すてふ我名(わがな)はまだき立ちにけり
    人しれずこそ思ひ初(そめ)しか

(忠見)右の歌は「兼盛の歌が技巧的にすぐれているのに対して、忠見の歌は率直に感情を詠出している」(島津忠夫著「百人一首」角川文庫)といわれている。しかし、いずれも恋を歌って余りあるものがあり優劣をつけがたい。
 判者の実頼は勝負を決することができない。御簾のなかの天皇の方を見るが、天皇も優劣をつけられない。
 そんななかで天皇が、御簾(みす)の向こうから「しのぶれど……」と口ずさぶ。
 これによって実頼が兼盛の歌を勝ちとしたといわれている(袋草子など)。
 兼盛は、この歌が勝ったと訊いて拝舞(はいむ)して喜び、忠見は落胆し食欲を失い病床につき、ついには死んでしまったと伝えられている。
 私はたたかいに破れたとはいえ、いきなり「恋すてふ」(恋すちょう)と主題の恋を歌の頭にもってきて、一気に歌いあげた忠見の先進性と斬新さを高く評価したい。命を賭けて歌を詠出した忠見には心引かれるものがある。

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第15号(2003/7/20発行)より転載

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