事務所ニュース「いずみ」

古典をたずねて

平家物語(その六)

 高倉天皇(第80代の天皇)には、中宮として清盛が入内(にゅうだい)させた徳子(建礼門院)がいたが、高倉殿の御所に小督(こごう)が女房として出仕(しゅっし)していた。
 小督は後白河法皇の近臣として活躍した信西の孫にあたり、当時、宮廷一の美人であり、琴の名手といわれていた。
 高倉帝は小督に心を奪われ、執心した。
 これを聞いて心穏やかでないのが清盛であった。
 清盛は、中宮徳子に皇子を生ませ、天皇の外戚となって権力の頂点に立つことを望んでいた。このようなとき小督が出現したのである。
 清盛は「いやいや小督があらん限りは世中(よのなか)よかるまじ。召しいだしてうし(失)なわん」と言った。
 小督はこれを漏れ聞いて、行方がわからぬように姿を消したのである。
 天皇の傷心は計り知れないものがあり、臣下の源仲国(なかくに)に小督を探し出すように命じた。
 仲国は笛の名手であり、宮中でよく小督の琴と合奏した間柄である。
 月の明るい夜、嵯峨野に小督を探す仲国の姿があった。
 ここで原文を引用しよう。
 何という名文であろうか。

「峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か」

 かすかに琴の音が聞えてくる。よく聞くと、聞き馴れた「想夫恋」(そうふれん)という楽である。
 駒をすすめて、仲国はやっとの思いで小督を訪ねあてるのである。
 平家物語(その六)
 ところで嵯峨には小督が隠れ住んだといわれるところが三ケ所も伝えられている。
 芭蕉の書き残した「嵯峨日記」によれば、落柿舎に逗留していた芭蕉が訪れた元禄4年4月、「いずれがか確かならむ」と惑いながら小督塚を訪ねて一句詠んでいる。

 嵐山藪の茂りや風の筋

 「墓は三軒屋の隣、藪の内に有り。しるしに桜を植ゑたり」として小督桜と呼ばれて、当時は有名だったらしい。
 このようにして高倉殿に連れ戻された小督は、その後、高倉帝との間に姫宮をもうけたが、再び清盛の知るところとなり、23歳の若さで剃髪させられた。
 他方、高倉帝は徳子の生んだ皇子(安徳天皇)へ譲位させられ、20歳の若さで亡くなった。
 小督は44歳まで生き、それまで高倉天皇の御陵のある閑清寺(京都の東山)で、亡き帝の冥福を祈り暮らした。現在も、御陵の横にはひっそりと一基の宝筐印塔が建っているが、これは小督の墓だと言われている。
 平家物語には、随所に悲哀に満ちた物語があるが、小督のこともこのうえない悲しい物語であり、涙をさそわれるのである。

(6回にわたって平家物語を書いてきた。夫である通盛(みちもり)の戦死を知って身重の身のままで船のうえから非業な投身自殺をした小宰相(こざいしょう)の話など、もっと書きたいが一応ここで終り、次回は村上天皇の御代に行われた「天徳歌合わせ」について述べたいと思っている。)

【参考文献】
 「平家物語一」小学館 日本古典文学全集
 「芭蕉文集『嵯峨日記』
 新潮社 新潮日本古典集成
 「写真紀行 平家絵巻」
 奈良本辰也他著 徳間書店

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第14号(2003/1/1発行)より転載

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