古典をたずねて
平家物語(その五)
この事務所報の創刊号以来、「古典をたずねて」を今日まで書き続けてきた。
書く以上はみなさんに読んでほしいのだが、どんな感じで読んでいただいているのだろうかと思いつつ、日本の古典をいまの世に紹介することも少しは意義があることだろうと考えながら続けている。
平家物語は軍記物で、荒ぶれた男たちを中心に描かれているが、そのなかに一輪の花を想起させる女人たちも登場して、この悲話物語に華を添えている。
平氏の棟梁として太政大臣にまで昇った入道相国(にゅうどうしょうこく)(清盛)は世の非難もかえりみず、我がままの限りをつくしていた。
入道相国は当時都で評判の高い白拍子の名手、祇王を寵愛し、西八条の邸に抱え、祇王の妹祇女や母とじも清盛に庇護され一家は大いに栄えた。
白拍子は遊女として水干(すいかん)に立烏帽子(たてえぼし)や白鞘巻をさして、男舞を舞い、今様を歌った。
祇王が清盛に寵愛され、幸福の絶頂にあったとき、都で人気の高い白拍子の仏御前が「平家太政の入道殿へ召されぬ事こそ本意なけれ」と言って自分を推参(すいさん)(押しかけて行く)すべく西八条を訪れる。
しかし、清盛は仏御前と会おうとしない。仏御前が淋しく邸を退出しようとしたとき、祇王がとりなし、清盛も「どれどれ、お前があんまり言うことだから会って帰そう」と会うことになった。
仏御前は今様を歌い舞を舞った。節回しも上手で、容姿も美しい仏御前を気に入った清盛は我がままにも祇王を追い出し、仏御前を邸に召しおいたのである。
祇王は障子に
萌え出づるも枯るも同じ野辺の草
いずれか秋にあはではつべき
との歌を書きつけて住みなれた西八条の邸を退いたのであった。
こともあろうに、悲しみにくれる祇王に清盛は「仏御前が退屈している。邸に来て、仏御前のために歌い舞え」という。
祇王はとても清盛の命令に従えない。しかし、母とじが清盛の命令をきかないと一家はどんな田舎に行かされるかわからない、親孝行だと思って行ってくれと頼むのであった。
祇王は泣く泣く出かけたが、その姿はまことに痛々しい限りであった。
こんななかで、祇王は自殺を考えるが母とじから死ぬのは五逆罪(ごぎゃくざい)だと言われ、
自殺を思いとどまり、21歳の若さで尼となり、嵯峨野の奥の山里に庵をあんで、同じく尼となった母とじ(45歳)、妹祇女(17歳)とともに念仏三昧の後世を願う日々であった。
そんなある日、仏御前が突然尼姿となって庵を訪ねてくる。
仏御前はいずれ我が身も捨てられる身である、日頃の罪科を許してほしい、許そうと言われるならば、一緒に念仏を唱えて極楽浄土の同じ蓮の上に生まれたいと申し入れる。仏御前はこのとき17歳であった。
4人は同じ所に寵もって朝夕仏前に花や香を供え、一心に往生を願う生涯を送ったのである。
後白河法皇の建てた長講堂の過去帳にも「祇王、祇女、仏、とじらの尊霊」4人とも同じ所に書き入れられている。
あべの総合法律事務所ニュース いずみ第13号(2002/6/1発行)より転載