事務所ニュース「いずみ」

古典をたずねて

平家物語(その二)

 私は源平の合戦において、平氏が源氏に敗れた理由の一つは平家の人々の貴族化にあったと思っている。
 武家社会の抬頭の先駆となった平家は藤原宮廷政治に取って代わり、日本最初の武家政権を樹立した。
 しかし、平氏の棟梁であった清盛や平家の公達(きんだち)らは、朝廷から与えられる官位を悦び、昇殿(清涼殿に昇ること)を許されることを競った。
 皇族や公卿(くぎょう)たちと交わり、武家の精神を喪失ないしは弱められ、貴族化していったように思う(もっとも、平氏は桓武天皇のときに葛原皇子(かずらはらのみこ)が平氏を賜姓(しせい)され、臣籍に下ったのが始まりであり、もともと貴族の血が流れている)。
 前号で取り上げた忠度(ただのり)の和歌、経正(つねまさ)の琵琶、敦盛(あつもり)の横笛といった伝記は、その貴族性を如実に具現しているように思うのである。
 私は平家物語巻第七「忠度都落(みやこおち)」の段を読むたびに涙を誘われる。
 清盛の弟忠度は歌道に優れていた。忠度は都落ちのとき、淀の川尻から歌の師であった藤原俊成卿の邸に引き返し「門をひらかれずとも、此(この)きはまで立寄らせ給え」(門をお開きにならないにしても、この近くまでお寄り下さい)と言う。
 俊成はその人ならばさしつかえないと、門をあけさせ、忠度を邸内に入れる。忠度は、いまは平家一門の命運は尽きたと言いつつ、勅撰集の編纂(へんさん)があると訊いたが、世が治ったときは、この一巻から適当なものがあったら一首でも俊成のご恩で撰んでもらえるならば、草葉の陰から嬉しく思うと述べて、俊成に歌集を預けて、西方に走り去っていく。俊成も忠度の思いを受けて「かかる忘れがたみ」をいただく以上は決していい加減にはしないと、感涙を押さえつつ歌集を受けとる。
 平家物語(その二)世の中が治ってのち、千載集(せんざいしゅう)が撰ばれたが、俊成は勅勘(ちょっかん)(天皇から咎めを受けている人)の忠度の名を公にできない。
 俊成は秀歌の多い忠度の歌集のなかから、故郷の花という題の付けられた

さざなみや志賀の都はあれにしを
    むかしながらの山ざくらかな

 という歌を「読み人知らず」として千載集に入集させたのである。
 私は右の件(くだ)りについて、いつも、朝敵となった忠度と公卿としての俊成の歌道における強い心の交わりを感じるのである。

この忠度は一の谷の戦いで、西の陣の大将軍であったが、部下の兵が逃げまどうなかで、岡部の六野太(ろくやた)なる人物と一騎打をし優位に立つが、六野太の童(わらわ)が後方から刀で忠度の右腕を落す。忠度は今はこれまでと思い「しばしのけ、十念となえん」(しばらくどいておれ、念仏を十遍唱えよう)と念仏を唱え、六野太により首を討たれる。
 六野太はこの公達が誰かを知らなかったが、箙(えびら)(矢を入れて携帯する容器)に結びつけられた文を見ると「旅宿花」(りょじゅくのはな)と題して

ゆきくれて木のしたかげをやどとせば
    花やこよひの主ならまし忠度

(旅の途中で白が暮れて桜の木の下影に宿るならば、桜の花が今夜の主となり、もてなしてくれるだろう、忠度)

 という一首があり薩摩守(さつまのかみ)忠度と知る。
 文武にすぐれた忠度の死を惜しみ、敵も味方も涙で袖を濡らさぬ者はいなかったのである。

※日本古典文学全集平家物語(小学館)・平家絵巻、奈良本辰也外著(徳間文庫)を参照した。

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第10号(2000/1/1発行)より転載

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