事務所ニュース「いずみ」

古典をたずねて

額田王(万葉集)

 前号で万葉集から大津皇子を取り上げたが、いつもより多くの方々からの反響があった。いかに万葉集がわれわれのなかで親しまれ、人口に膾炙(かいしゃ)する存在であるかを知らされた。
 そこで今回も万葉集のなかから有名な額田王を紹介したい。
 われわれ日本人の多くが万葉集を好きになるきっかけが額田王の次の歌である。

あかねさす紫草野(むらさきの)行き標野(しめの)行き
    野守は見ずや君が袖振る
        (巻一・二〇)

〔(あかねさす)紫野を行き標野を行って野守が見ているではありませんか。あなたが袖をお振りになるのを〕

 この歌には「天皇、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)する時に額田王の作る歌」との詞書(ことばがき)がある。
 天智(てんじ)天皇七年(668年)の夏、蒲生野(今の滋賀県近江八幡市や八日市付近一帯)の禁野(きんや)で天皇が宮中の人々を大勢従えて狩をして遊んだとき、大海人皇子(のちの天武天皇)が額田王に袖を振って恋しい心を表した場面を歌ったものである。
 皇子は王とはかつては夫婦であり、二人の間には十市皇女(のちの大友皇子の妃)があったが、王は後に天皇の後宮となった。上記の歌はこのような状況のもとで歌われた。
 これに対し皇子は次の歌で応えた。

紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば
    人妻故に我恋ひめやも
        (巻一・二一)

(柴草のようににおうあなたを憎いと思ったら人妻と知りながら恋しく思いましょうか)

 右の歌より先の斉明(さいめい)天皇(女帝)の7年(661年)、天皇は百済の国の要請を受け船団を組んで朝鮮半島の新羅(しらぎ)遠征に向かった。この遠征には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、大海人皇子、太田皇女(おほたのひめみこ)、間人皇女(はしひとのひめみこ)などのほか額田王も同行した。
 額田王(万葉集)一行は熟田津(にきたつ)(今の愛媛県松山市北部といわれている)に停泊し、出発の時に王は次の歌を歌った。

熟田津に船乗りせむと月待てば
    潮もかなひぬ今は漕き出でな
        (巻一・八)

(熟口津で船出しようとして月の出を待っていると潮も幸い満ちて来た。さあ漕ぎ出そうよ)

実に躍動感溢れる歌である。
 額田王は 鏡王(かがみのおおぎみ)の女(むすめ)として生れ、斉明朝から持統朝の歌人として万葉集に11首の歌がある。その歌風は右の二つの歌に見られるように雄渾(ゆうこん)かつ優艶(ゆうえん)である。 天智天皇の七年(667年)近江遷都が行われた。
 王は大和を離れる淋しい心を三輪山(みわやま)との別れを惜しむ長歌で歌い、次の反歌(反歌)を歌った。

三輪山を然(しか)も隠すか雲だにも
    心あらなも隠さふべしや
        (巻一・一八)

(三輪山をそんなにも隠すことか、せめて雲だけでもこの気持を察してほしい。隠してよいものか)

 額田王は天皇や宮廷人に代わって歌を作っていたという節もあり、私は額田王は一方で天皇の後宮でありながら、他方で宮廷歌人の役割を果たしていたと考えている。
 歌の訳は小学館「日本古典文学全集、万葉集1」によった。

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第8号(1998/8/25発行)より転載

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