古典をたずねて
大津皇子(万葉集)
万葉の時代に生きた大津皇子は歴史上の人物のなかでも心ひかれる人物の一人である。
大津皇子は天武天皇と太田皇女(おおたのひめみこ)との間に生まれた皇子であり、姉として大伯皇女(おおくのひめみこ)がいた。
わが国に現存する最古の漢詩集である「海風藻(かいふうそう)」によれば、大津皇子は文武に長じ、性格は頗(すこぶ)る放蕩かつ礼節を知る人であり、多くの人々から付託(ふたく)される人物であった。
そんな大津皇子に石川郎女(いしかはのいらつめ)との間に次のような相聞歌(そうもんか)がある。
あしひきの山のしづくに妹(いも)待つと
我(あれ)立ち濡(ぬ)れぬ山のしづくに
(巻二・一〇七)
〔(あしひきの) 山のしずくであなたを待って私は立ち濡れてしまったよ、山のしずくで〕
石川郎女が応えた歌
我(あ)を待つと君が濡れけむあしひきの
山のしづくにならましものを
(巻二・一〇八)
〔わたしを待って、あなたが濡れたとおっしゃる(あしひきの)山のしずくになれたらよかったのに〕
男女の心を通じあう愛の形を見る思いがする贈答歌である。
大津皇子は天武天皇と鵜野皇女(うののひめみこ)(後の持統天皇) との間に生まれた草壁皇子(くさかべのみこ)とともに皇位承継の有力な候補者であった。
草壁皇子は皇太子に立ったがすぐれた人物である大津皇子の存在に鵜野皇女はいつも不安を抱いていた。そんななかで天武天皇の死後一ケ月も経たないうちに大津皇子は謀叛の罪を疑われて処刑される。
このとき皇子は24歳であった。次は辞世の歌である。
百伝(ももつた)ふ 磐余(いわれ)の池に泣く鴨を
今日(けふ)のみ見てや雲隙(くもがく)りなむ
(巻三・四一六)
〔(百伝ふ)磐余の池に泣いている鴨を今日だけ見て死んでいくのか〕
大津皇子は前述したように鵜野皇女や草壁皇子を中心とする勢力によって政治的に追いつめられるなかで、伊勢神宮の斎宮をつとめる姉の大伯皇女を訪ねる。信頼する姉と会いたかったのであろう。弟を大和へ帰すときの大伯皇女の歌が11首ある。
我(わ)が背子(せこ)を大和(やまと)へ遣(や)るとさ夜(よ)ふけて
暁霧(あかとき)に我が立ち濡れし
(巻ニ・一〇五)
二人行(ゆ)けど行き過ぎ難き秋山を
いかにか君がひとり越ゆらむ
(巻二・一〇六)
弟を愛をもって気遣う姉の心情が歌われて余りあるものがある。
大津皇子は葛城の二上山に埋葬される。
大伯皇女は哀しみ傷んで次の二首を歌う。
うつそみの人なる我(あれ)や明日(あす)よりは
二上山を弟(いろせ)と我(あ)が見む
(巻二・一六五)
(この世の人である私は明日からは二上山を弟とみて眺めよう)
磯の上に生(お)ふるあしびを手折(たお)らめど
見すべき君がありとはいはなくに
(巻二・一六六)
(磯のほとりに生えているあしびを折りたいがお見せするあなたがいるわけではないのに)
大津皇子の死後、やがて万葉集の歌の絶頂期ともいうべき持続朝を迎えるのである。
小学館日本古典文学全集萬葉集
NHKブックス木保修著「万葉集時代と作品」、新潮文庫犬養孝著「万葉のいぶき」などを参照した。
あべの総合法律事務所ニュース いずみ第7号(1998/2/10発行)より転載