事務所ニュース「いずみ」

古典をたずねて

梁塵秘抄

遊びをせんとや生まれけむ
    戯(たわぶ)れせんとや生まれけむ
        遊ぶ子供の声きけば
            わが身さへこそゆるがるれ

(うらやまし、歌いざさめくあの子らは、遊びをしようとて、生まれて来たであろう。戯れしようとて、生まれ出たのであろう。あの声開けばウキウキとわが身も連れて揺るぎ出す。)

ほとけは常にいませども
    うつつならぬぞあはれなる
        人のおとせぬあかつきに
            ほのかに夢にみえたまふ

(みほとけは、常に在(いま)すと聞きながら、凡夫の身とてかなしやな、みほとけ恋し恋しやと思い寝の夜のふけすぎて、ものの音絶えし夢枕にほんのりとお姿が‥‥。)

梁塵秘抄この二つの歌は後白河法皇の撰述になる今様(いまよう)を集成した梁塵秘抄のなかでも最も有名なものである。
 梁塵とは昔、中国の名歌手が歌った時、梁の上(うわばり)の塵が感動して舞い上がったという故事に由来する。
 今様とは雅楽である催馬楽(さいばら)や晴海波(せいがいは)と違い、当時の流行歌でありそれぞれに曲調がついていた。しかし、いまは歌詞しか伝わっていない。
 今様は白拍子や傀儡子(くぐつ)といった女芸人がよくするところであったが後白河院はこの今様の大ファンであり美濃の出身の乙前(おとまえ)(美濃の出身だから傀儡子だろう)から伝授され、自らが今様界の第一人者といわれるほどの歌唱力をもっていた。
 後白河院は政治の面では29歳で皇位につき32歳で禅譲(ぜんじょう)したが、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽の五代にわたって院政を執って武家勢力と対抗し頼朝をして「日本国第一の大天狗」と言わしめ保元の乱や鹿ヶ谷事件に関わったり(後白河院の鹿ヶ谷事件への関わりは史実の裏付けがなく私見である)清盛によって鳥羽殿に幽閉されるなど狷介(けんかい)孤独な人物(井上靖著「後白河院」新潮文庫)と評されている。
 こんな後白河院が先に述べたように今様の第一人者というのであり、これらは相容れないもののように思われ、余りにも好対照であり興味深い。

 梁塵秘抄は歌集10巻、口伝集10巻の大著だといわれているが、現在は梁塵秘抄巻一、巻二(566首)口伝集巻一、巻一〇しか伝わっていない。〔以上は榎克朗氏校注の新潮日本古典集成を参照した。
 写真は後白河院の発願・建立にかかる京都の蓮華王院(三十三間堂)〕

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第6号(1997/9/10発行)より転載

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