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古典をたずねて

建礼門院右京大夫集(その三)

 建礼門院右京大夫集(その三)
・・・右京大夫には資盛(すけもり)のほかに、もう一人藤原隆信(ふじわらのたかのぶ)という恋人がいた。資盛との恋が純粋結晶とするならば、隆信との恋は大人の恋愛といえる。隆信は家集「藤原隆信朝臣集(あそんしゅう)を持ち、似絵(にせえ、肖像画)の開祖といわれ、教科書にもよく登場している後白河法皇像や源頼朝像の作者と伝えられている文化人であった (写真は隆信筆と伝えられる源頼朝像)。
 右京大夫は資盛との恋にみられる「可愛い女」から隆信との関わりでは磨かれた教養とセンスを持つ後宮女房として、打てばひびくような知的女性としての側面をのぞかしている。(糸賀きみ江氏)
 ある時、世間の人よりも色好むと聞く隆信から「どうぞ私の恋心を受け入れて下さい」との歌を贈られ、

思ひわかでなにとなぎさの波ならば
    ぬるらむ袖のゆゑもあらじを

(どこと区別しないで渚に寄せる波のように誰かれの分別なく心をお寄せになったのなら濡れた袖は私のせいではありませんでしょう。糸賀氏訳)

と応え、

人わかずあはれをかはすあだ人に
    なさけしりても見えじとぞ思ふ

(誰でもかれでも情愛をかわすあなたのような浮気っぽい人にたとえ私が恋の情趣を解する女であるとしてもそうは見られぬようにと思います。糸賀氏訳)
 と答えて始めのうちは隆信の求愛を拒否する。しかし、隆信の執拗な誘いかけに「何事もさてあらで」(何もかも拒み続けるわけにはいかなくなって)ついに隆信の誘いに負けてしまう。しかし、一旦靡いてしまうと好色家の隆信は右京大夫への関心と興味を薄れさせていく。

越えぬればくやしかりける逢坂(あふさか)を
    なにゆゑにかは踏みはじめけむ

(いったん関を越えて逢ってしまうとこんなに悔やまれるのにどういうわけでわたしは越えてしまったのでしょう。糸賀氏訳)

 と詠むのである。
 老いてのち、民部卿(みんぶきょう)藤原定家(ふじわらのさだいえ)が「新勅撰集」を編集するに当たって、右京大夫に「書き置きたる物や」とたずねる。
 そして、定家から、建礼門院の女房時代の召名(めしな)と後鳥羽院の女房時代の召名の「『いづれの名を』とか思ふ」と問われ彼女は

「なほただ、へだてはてにし昔のことの忘られがたければ、『その世のままに』など申すとて言の葉のもし世に散らばしのばしき昔の名こそとめまほしけれ」
(私の歌がもしも世に残るのでしたら忘れ難い昔の名の方をとどめたいものでございます。糸賀氏訳)

 と乞うのである。

 のちになって20年も仕えた後鳥羽院時代の呼び名より、資盛や平家の人々との思い出が多く、若かりし日にほんの五、六年呼ばれた建礼門院右京大夫という名のほうを彼女は望んだのである。(田辺聖子「文車日記(ふぐるまにっき)、私の古典散歩 新潮文庫)

 これまで3回にわたって右京大夫の家集を紹介してきた。流麗な歌と文章、哀切な女性の調べ、愛をめぐる歓びと悲しみを謳いあげているこの家集は誠にすばらしい。広く江湖に推す所以である。

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第5号(1997/3/15発行)より転載

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