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古典をたずねて

建礼門院右京大夫集(その一)

 建礼門院右京大夫集(その一)古典としてはややマイナーだが、私が好きな古典に「建礼門院右京大夫集」がある。今回はこの家集(歌集) について3回に分けて述べてみたい。
 この家集は平家の栄耀(えいよう)、源平の争乱、平家の没落という時代的なものを背景に平資盛(たいらのすけもり)との恋愛を主軸として359首の歌とそれらの詞書(ことばがき)から構成されている。
 作家の立原正秋は「愛をめぐる人生論」(新潮文庫)のなかで「若年の頃、私はこの歌集一巻を通読して涙を禁じえなかった。資盛に愛されたという事実は彼女にとって唯一のよすがであった」と書いているが、この家集には哀切で悲しい物語が展開されている。
 この家集は「家の集などいひて、歌よむ人こそ書きとどむることなれ、これは、ゆめゆめさにはあらず。ただ、あはれにも、かなしくも、なにとなく忘れがたくおぼゆることどもの、あるをりをり、ふと心におぼえしを思ひ出でらるるままに、我が目ひとつに見むとて書きおくなり」という名文の書き出しからはじまる。右京大夫は16歳ぐらいで高倉天皇の中宮建礼門院徳子のもとに出仕する。この宮仕えのなかで清盛の孫で重盛の二男資盛とのかかわりができ恋に落ちていく。そして、資盛に次の歌を贈る。

散らすなよ
    散らさばいかがつらからむ
        しのぶの山にしのぶ言の葉(ことのは)

(見られないで下さい。見られたらどんなに恥ずかしいことでしょう。忍ぶ上にも人目を忍んだこの手紙を。糸賀きみ江氏訳)

 しかし、北方(きたのがた)がいる資盛は右京大夫とつかずはなれずの関係を保ちつつ、二人の恋は推移していく。
 寿永元暦(じゅえいげんりゃく)となり頼朝が挙兵し、源平の動乱のなかで平家の都落ちが必定となったとき、さすがの資盛も右京大夫を悼み「道の光もかならず思いやれ(後世(こぜ)を弔ってくれ)」といいやって西海に落ちていったのである。これ以降、右京大夫は資盛のことを思いやり、平家の人々の悲報が西海から聞こえてくるたびに心を痛めるのである。

いずくにて、
    いかなることを思ひつつ
        こよひの月に袖しぼるらん

(あの人はどこでどんなことを思いながら今夜のこの月を眺め涙に濡れた袖を絞っていることだろう。糸賀氏訳)

 やがて資盛の訃報が伝わる。平家物語は 「小松の新三位中将(しんさんみのちゅうじょう)資盛、同少将有盛、いとこの左馬頭(さまのかみ)行盛、手に手をとりくんで一所にしづみ給ひけり」と記している。
 右京人夫は絶唱する。

かなしとも
    またあはれとも 世のつねに
        いるべきことにあらばこそあらめ

(今度の事件は「悲しい」とも、また「あわれ」とも世の常なみに言い表すことのできる出来事であろうはずがないのです。糸賀氏訳)

 右京大夫はこの悲報に接してのち小宰相(こざいしょう)(通盛の妻で通盛が一の谷で討死したことを聞いて入水自殺した)のように死ぬこともできず、建礼門院(壇の浦で入水したが助けられた)のように出家することもできず、昔の資盛の領地を訪ねて思い出にひたり、自分が亡くなったあと誰が資盛を弔ってくれるだろうかと心配する。

いかにせむ、
    我がのちの世はさてもなほ
        むかしの今日を とふ人もがな

(どうしよう、わたしの後世はどうなってもかまわないそれよりやはり昔契ったあの人の命日を弔ってくれる人がいてほしい。 糸賀氏訳)

この家集は特に詞書がいきいきとして文学的である。平家物語が男たちの世界から平家の興亡を描く叙事詩であるとするならば「右京大夫集」は女性が平家の栄枯盛衰を見聞きした回想の記であり叙情詩によって表現された作品である。(糸賀氏訳新潮日本古典集成「世札門院む京人夫集」)

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第3号(1996/5/25発行)より転載

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