事務所ニュース「いずみ」

古典をたずねて

二つの鹿ヶ谷事件

 一つ目の「鹿ヶ谷事件」は平家物語に語られている。
 東山の麓の鹿ヶ谷(今の銀閣寺の東方)に俊寬僧都の山荘があった。
 俊寬は僧侶だが貴族の出身である。彼は気性も激しく驕り高ぶった人であり、謀反にも関係するような人であった。
 喜応二年(一一七一)正月、清盛の娘徳子が入内したがその頃、大将(左右の近衛府の長官)の職があき、成親(大納言)らがその職につくことを望んだ。しかし、清盛は子の重盛を左大将、同宗盛を右大将にした。
 成親はこれを恨み鹿ヶ谷の山荘で時には後白河法皇も迎えて俊寬、康頼(平判官)成経(少将) 西光(法師)らとともに平氏討滅の密議をこらした(法皇が密議に参加したか否かは争いがある)。
 この平家打倒の密議は右に述べた司召の除目(人事)に対する不満のほか清盛の専横な政治への不満もあったと思われる。
 ところが多田行綱が清盛に密告し、この密議のことが露見。俊寬、成親らは捕らえられ、西光は斬首、成親は備前の児島に流罪(後に惨殺)、康頼、成経、俊寬は薩摩の鬼界島(今の硫黄島)に流罪となった。
 治承二年(一一七八)徳子(建礼門院)が懐妊し、怨霊をなだめるために清盛は康頼と成経を赦免するがその赦文には俊寬の名がない。島に残され船で都へ帰っていく成経らを慟哭しながら見送る俊寬(この場面は能「俊寬」でいかんなく演じられる)。俊寬は絶食して鬼界島で果てる。
他方治承三年(一一七九)、後白河法皇はこの事件のこともあって清盛によって鳥羽殿に幽閉されるのである。
これが一つ目の「鹿ヶ谷事件」である。
 もう一つの「鹿ヶ谷事件」は建永元年(一二〇六)一二月、法然上人が七五歳のときに起きた。
 当時、他力門である浄土教は南都北嶺(奈良仏教、天台宗)から敵視され、朝廷からも嫌忌されていた。
 そのようななかで、後鳥羽上皇が熊野の神社に詣でていた留守中に、上皇が特に気に入っていた宮廷女房の鈴虫と松虫が、法然上人の弟子であり鹿ヶ谷の草庵で説法(布教活動)していた住連や安楽を訪ね一晩帰らなかったことがあった。世間ではこれを密通だと噂した。
 年末に帰京した上皇は子細を聞いて激高した。
 正月から法然上人の弟子の逮捕拷問が相次ぎ、①布教の拠点であった吉水草庵(今の円山公園の奥にあった)の解散、②浄土教の布教の禁止、③法然上人、親鸞上人らの流罪、④住連、安楽ら四人の斬首(死罪)が断行された。貴族社会では通常行わない死罪を伴う異例の処遇であった。聖道諸宗(自力門)と権力者(当時上皇は天皇と同じ強い権力を持っていた)の結託で仏教史上例を見ない弾圧が行われたのである。
 南海阪堺線の天王寺駅から二つ目の駅を「松虫」というが、ここは右の松虫が老後草庵を結んだところだと言われている。(松虫についてはほかの伝説もある)

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第41号(2017/1/1発行)より転載

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