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古典をたずねて

俊成卿女と宮内卿 その一

  情緒纏綿な空気をまとう俊成卿女と爽やかで理知的な歌を詠む宮内卿は新古今和歌集を彩る才媛である(「俊成卿女と宮内卿」近藤香著)。
 

 新古今和歌集(以下、新古今集という)は後鳥羽上皇の院宣で一二〇五年に約一九八〇首をもって成立した勅撰和歌集である。

  新古今集は妖艶な情調象徴と本歌取り、三句切れ、体言止めなどの特色がある(広辞苑)。 俊成卿女も宮内卿も後鳥羽院に見出されて才を誇った女流歌人で、俊成卿女は恋の情緒で定家風の巧緻優艶な歌を詠み、宮内卿は清新な自然詠や恋歌を切れのあるタッチでうたった(前掲書、近藤香)。

 俊成卿女は受領階級の藤原盛頼と俊成の娘の八条院三条の間に生まれた。

  父盛頼が、兄成親たちが起こした鹿ケ谷の事件に連座して失脚し、七歳のころ、俊成の養子となった。従って、俊成卿女の名で呼ばれた。藤原定家は叔父にあたる。  

  俊成は皇太后宮大夫であり、御子左家(醍醐天皇皇子左大臣源兼明の邸宅を伝領したのでその名で呼ばれる)の基を築いた歌人である。  俊成卿女は源氏物語を重んじる御子左家の家風になじんで育った。  

  二人の略歴をみよう。

  俊成卿女は源通具(定家らとともに新古今集の選者の一人)に嫁したが、家庭生活では苦労をした。

   建仁元年(一二〇一年)「八月一五夜歌合」以降、後鳥羽院の女房(二八歳ごろ)として多くの歌合で活躍。四三歳ごろ出家し、後播磨の越部庄に余生を送り(越部の禅尼と呼ばれた)八三歳ごろに他界した。  

 新古今集に二九首、勅撰集に一一六首を残している。  

  三〇歳ごろまでに「無名草子」を書いたとされる。  

  他方、宮内卿は二〇歳余りで夭逝した。父は村上源氏の源師光、母は後白河院の女房安芸。十代の後半(一七歳といわれている)歌才によって後鳥羽院の女房として出仕。  

  鴨長明の「無名抄」に「昔に恥ぢぬ上手」とあり、「あまり歌を深く案じて」病になり、父の諫めも聞かず歌に打ち込んだため若死をした。

  新古今集に一五首、勅撰集に四三首が入集している。

  のちに鑑賞するが「薄く濃き野辺の緑の若草に跡まで見ゆる雪のむら消え」(新古今集 春 上・七六)との歌によって、「若草の宮内卿」と呼ばれた。

  先にあげた「無名抄」のなかで、長明は二人の歌の詠みようについて次のように言っている。  

「俊成卿女は前もって多くの歌書を見て十分に古歌の類を咀嚼した後、すべてを片付け、頭に残ったイメージによって歌を案じたのに対し、宮内卿の方は、最初から最後まで歌書の類を置いたまま、それを見い見いしながらその場で次々と歌を案じたというのである(前掲書、近藤香)。これは同時代人の証言である。

  長明はさらに俊成卿女は深夜人が寝静まってから歌を作り、若い宮内卿は昼も夜も歌集類に囲まれて四六時中歌を案出したとも言っている。  

  当時の人が歌を詠むのにいかに命がけであったかについては歌人寂蓮(歌に優れ俊成の養子となりのちに出家)が「口違ひ、小便色変はりてこそ秀歌は出で来れ」(口がカラカラに乾き、小便に赤い血がまじるくらいでないといい歌はできない)と言っているところからも窺えるところである。 紙面がなくなった。二人の代表的な歌は次回に鑑賞することにしたい。

〈参考文献〉 「新古今和歌集」日本古典文学全集 小学館 「俊成卿女と宮内卿」近藤香著 笠間書院 「無名草子」日本古典集成 新潮社

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第36号(2014/8/1発行)より転載

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