事務所ニュース「いずみ」

古典をたずねて

紫式部日記 その三

道長、頼通親子の姿、書きとめる

 

紫式部日記は次のような内容となっている。

(一)寛弘五(一〇〇八)年、秋の訪れてきた土御門(つちみかど)殿(どの)(道長の邸宅)の有様と中宮彰子の立派さ。

(二)寛弘五年秋から同六年正月三日までの中宮のお産の前後の記事。

(三)(前号でその一部を紹介した)いわゆる消息文と言われるもの。

(四)一一日の暁の御堂詣(みどもうで)および道長と紫式部との贈答(寛弘五年五月から六月にかけてのものか)。

(五)早朝、道長から女郎花(おおみなえし)を差し出されて、歌を求められての贈答。

(六)若い頼通(よりみち)の素晴らしさ。

(七)宰相(さいしょう)(きみ)の昼寝姿の美しさ。

などである。

紫式部は一大慶事である中宮のお産(若宮のちの後一条帝の誕生)に関する記録をするよう道長から要請されたとみられ、紫式部日記の記事は中宮の出産の前後のことが多く書かれている。

しかし、ここでは紙幅の関係でお産の前後の描写のなかから、道長や頼通などの人物について書かれている箇所を見てみたい。

 

頼通について

頼通は道長の長男で当時、一七歳である(頼通は後年、摂政となったり、宇治の平等院を建てた)。

紫式部と宰相の君が話をしているところに頼通が近づいてきて話に加わる。

「年のほどよりはいとおとなしく、心にくきさまして『人はなほ、心ばへこそかたきものなめれ』など、世の物語しめじめとしておはするけはひ、をさなしと人のあなづりきこゆるこそあしけれとはづかしげに見ゆ」(お年のわりにはずっと大人びた奥ゆかしい様子で、「女性はやはり気立てがよいということになるとめったにないもののようだね」などと、その方面の話などをしんみりとしておいでになる様子は、まだお(わか)いなどと人々があなどり申しているのはほんとうにいけないことだと恥ずかしくなるほど、ご立派に見受けられる)というのである。そして「おほかる野辺(のべ)に」(古今集にある和歌)の歌を()しながら去って行ったというのである。いつも思うのだが、同時代人が同時代の歴史上の人物についてその目で見たままの状態を書いているのであり、強く興味を覚えるところである。

藤原家の(きん)(だち)(摂関家など貴族の子息の称)として、教養、上品さが漂う人物像が描かれていると思う。

 

道長について

〈その一〉ある日の朝、道長が土御門邸の庭の橋廊の南に咲いている女郎花を一枝折って、それを紫式部の部屋の()(ちょう)越しに上からさしかざされたが、その姿がとても立派である、それに引きかえて私(式部)の寝起きの顔の見苦しさを思い、道長が「この花の歌、遅くなってはいけない」というので、式部はすぐに硯に寄って書いた。

女郎花さかりの色を見るからに

露のわきける身こそしらるれ

道長は「おお、早いな」と微笑んで硯を取り寄せて

白露はわきてもおかじ女郎花

心からにや色の染むらむ

と返したのである。

紫式部が道長から女郎花を贈られ、歌を所望されたことを得意に思っている様がみえる。

〈その二〉「(ひる)(とき)に空晴れて朝日さしいでたるここちす」と若宮が無事誕生したことを喜びあい、安産であるうえに皇子であったことをみんなで喜び合う。

道長は若宮を抱いて一条天皇にそっとお連れする。その時、若宮が泣く。「御声いとわかし(赤子らしい)」というのである。また道長は「あはれ、この宮の御しと(おしっこ)に濡るるはうれしきわざかな。この濡れたるあぶる(火にあぶること)こそ思うやうなるここちすれ」と喜んでいる。道長の娘に皇子が生まれたことの満足そうな様子がうかがえる。

〈その三〉「(わた)殿(どの)に寝たる夜、戸をたたく人ありと聞けど、おそろしきに音(返事)もせで明かしたるつとめて、」

殿(道長)より

夜もすがら水鶏(くいな)よりけになくなくぞ

まきの戸口にたたきわびつる

(夜通し水鶏がたたくにもまして、私はなくなく槙の戸口で戸をたたきながら思いなげいたことだ)

式部より

ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑ

明けてはいかにくやしからまし

(ただではおくまいと熱心に戸をたたくあなたのことゆえ、戸をあけましならば、どんなにか後悔したことでしょう)

水鶏はツル目クイナ科の夏鳥で、その鳴声が戸をたたく音に似ているという。

他にも書くことは沢山あるが、この辺で「紫式部日記」を終わる。

 

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第35号(2014/1/1発行)より転載

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