事務所ニュース「いずみ」

古典をたずねて

紫式部日記 その一

 紫式部は父藤原(ため)(とき)と母藤原(ため)信女(のぶのむすめ)との間に生まれた〔生年は元延元(九七三)年ごろではっきりしない〕。姉と弟の(のぶ)(のり)(一説に兄とも)がいた。

 為時は文章生(もんじょうしょう)出身の学者であり、官位は四位・五位で越前(えちぜん)(のかみ)、越後守((かみ)は現代の知事のような地位)を歴任したいわゆる受領(ずりょう)階級の出身であった。

 母の父為信も受領階級で中級貴族であった。

 父方の祖父には三六歌仙の一人で(つつみ)中納言(ちゅうなごん)といわれた(ため)(すけ)がいたし、紫式部の一族には歌人として知られる人も多く、また、母方の祖父(ふみ)(のり)も文章生出身で(ごん)中納言(ちゅうなごん)であった。

 紫式部は文芸的な血筋ないしは文芸的環境の中で育ったのである。

 紫式部が才媛(さいえん)であったことについて、紫式部日記の中の次のエピソードは有名である。

 「家の式部(しきぶ)(じょう)(弟の惟規のこと)という人が、まだ子供のころに漢籍(かんせき)を読んでいましたとき、私はそれをそばでいつも聞き習って弟が詠み覚えるのにてまどったり忘れたりするようなところも、私は不思議なほど早く理解しましたので学問に気を入れていた親(為時)は『口惜しう、男子(おのこご)にて持たらぬこそ(さいわい)なかりけれ(残念なことにこの娘が男の子でなかったのは本当に幸せがなかったのだ)とぞ、つねになげかれはべりし』というのである」

 また、紫式部は源氏物語の「(はは)(きぎ)」の巻の「雨夜(あまよ)品定(しなさだめ)」(光源氏、(どう)中将(ちゅうじょう)()()(かみ)(とう)式部(しきぶ)(じょう)が妻にするのはどんな女性がよいかを議論している)のところで左馬の頭に「地方の政治だけに関係している受領(ずりょう)など、中流の階級とはっきり決めている連中の中にも…そんなあたりからちょっといい女を掘り出すのにいまの御時世は便利ですよ。なまじっかな上達部(かんだちめ)よりも非参議の四位あたりの人で、世間の声望もまんざらでなく、もともと素性も悪くないのが安楽にゆったりと暮らしているのは、いかにもさっぱりしていいものです」(瀬戸内寂聴「源氏物語巻1」)と言わせている。これは自分の出身の受領階級の(むすめ)をよいといっているのであり面白いと思う。

 紫式部は国守として赴任する父と一緒に越前や越後に行き(ここでの生活が源氏物語の「須磨」、「明石」の巻にも生かされていると思う)途中で帰京して藤原(のぶ)(たか)(備後、周防などの国守を歴任)と結婚(宣孝四七歳、式部二七歳ごろ)、一女(賢子(けんし))を設けている。

 夫宣孝は結婚後3年で病没し、紫式部は寡婦となった。

 その間、紫式部は「源氏物語」を書き始めた。

 源氏物語が評判となり、紫式部は藤原道長によって見い出され、中宮彰子(しょうし)(道長の娘で一条天皇の中宮)の女房として出仕することになる〔寛弘二(一〇〇五)年〕。

 文化人であり教養人であった一条天皇が定子(ていし)皇后のサロン(そこには清少納言がいた)ばかりに足を運び、中宮彰子のサロンには来なかったが、道長はその状況を変えるべく紫式部を彰子の(もと)に出仕させ、その結果、源氏物語の熱心な読者でもあった一条天皇が彰子の許に来るようになり、やがて彰子は(あつ)(ひら)親王(後一条天皇)、(あつ)(なが)親王(後朱雀天皇)を出産し、道長が天皇の外戚としてますます強大な地位を得ることになるのである。

 一条天皇は、源氏物語を読んで「この人(紫式部)は日本紀(日本書紀)をこそ読みたまへけれ。まことに才あるべし」と称讃していることも紫式部日記には書かれている。

 次回は紫式部日記の有名な「消息文」の部分を中心に述べたいと思う。

 

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第33号(2013/1/1発行)より転載

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