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古典をたずねて

世阿弥 能に寄せて(その五)

 前号に「このシリーズの最終章として世阿弥の後半生について書きたい」と述べたが、果たしてそんなことを書いて意味があるのかなとも感じる。しかし、能の世界における巨人の人生を語るのも面白いと思う。

 足利義満は応永一五年(一三九四)五月に没した。世阿弥は最大の庇護者と最もすぐれた批判者を失った。これが世阿弥の芸能生活の大きな転機となった。

 第四代の将軍となった義持は尊氏や(よし)(あきら)(二代将軍)以来の田楽を好み、喜阿(きあ)の後継者である新座の増阿(ぞうあ)を寵愛した。義持の時代になってからの世阿弥の演能記録は乏しく、伏見稲荷社の法楽能(応永一九年)と北野七本松における勧進能(応永二〇年)ぐらいである。

 増阿を中心とする観進田楽が将軍臨席のもとに頻繁に挙行されたのと比べて、世阿弥はいかにも冷遇されていったのである。

 義持は洗練された知識人で、その増阿(びいき)はそれなりの理由があった。

 しかしよく考えてみると、義持の行なったことはせいぜい、一将軍が猿楽よりも田楽能を好み贔にしたというに過ぎないとも言える。

 だが、世阿弥はその著書「()花道(かどう)」のなかで、「当道いよいよ末風(まっぷう)になるゆゑに、かやうの(しゅう)(どう)おろそかならば、道も絶へぬべきか」とも述べており、猿楽道に対する危機感を抱いている。

 第六代将軍となった義教(よしのり)(第五代将軍義量(よしかず)は夭逝した)は、世阿弥の弟で観世座の庶流(本家から別れた家柄。分家)であった四郎の子である元重(もとしげ)を寵愛した。

 義教は応永三四年(一四二七)四月、稲荷辺で興行された、元重独演の勧進能を後援したり、永享元年(一四二九)笠懸(かさかけ)馬場(ばば)での元雅(世阿弥の子)・元重の能の競演も賞翫(しょうがん)している。

 他方で世阿弥父子の仙洞(せんどう)御所への出演を中止させたり、世阿弥の醍醐清滝宮の楽頭職を取り上げ、その後任に元重を充てたりしている。

 新たに観世大夫となった元重が、永享五年(一四三三)、清滝宮で演能したり、(ただす)河原(がわら)観進猿楽でも義教は連日、この新観世大夫の芸を観賞している。

 世阿弥は義教によって永享五年(一四三四)五月、佐渡に流される。理由は定かではないが、おそらく元重に対するその後も変わらない(けん)(かい)な態度がこの偏執狂的な将軍の勘気に触れたからではなかったかといわれている。

 世阿弥はやがて放免され帰洛したが、その後の行動はよくわからない。世阿弥が没したのは、()(きつ)三年(一四四三)といわれているが、これも(けい)(じょ)(しゅう)(りん)の「観世小次郎画像賛」によるもので、はっきりしない。

 しかし、世阿弥は舞台に立つ機会が減るなかで、多くの著作している。「花鏡」、「音曲声(おんきょくこわ)(だし)口伝(くでん)」、「二曲(にきょく)三体(さんたい)人形図(にんぎょうず)」、「拾玉(しゅぎょく)(とっ)()」、「(しゅう)道書(どうしょ)」などである。

 永享四年(一四三二)、最も期待し、後継者としていた元雅が伊勢で急死(殺された)したが、世阿弥は「()(せき)一紙(いっし)」や「却来(きゃくらい)()」のなかで、哀切な追悼文を認め、元雅を悼み、「当流の道絶えてすでに破滅しぬ」と書きつけている。

 私は世阿弥を抜きにした能を語ることはできないと思っている。

 (新潮社 田中裕 「世阿弥芸術論集」を大いに参照した)

 

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第32号(2012/8/1発行) より転載

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