事務所ニュース「いずみ」
HOME > 事務所ニュースいずみ > 古典をたずねて > 世阿弥 能に寄せて その三

古典をたずねて

世阿弥 能に寄せて その三

世阿弥は演能、作能、能楽論の著作などに大きな業績を残した。

 今回は世阿弥の作能、わけても夢幻能について語ってみたい。

 作詞・作曲や改作したものも含めると、世阿弥がかかわっている能は約五〇曲ぐらいあるといわれるが、そのうち、三分の二ぐらいがいわゆる夢幻能の形式で作能されている。

 世阿弥までに作られた能は現在能の形式であった。現在能は現実の人間界の出来事を、順を追って筋立てて展開していく。観阿弥の作能した「自然居士」、「百万」、「吉野静」などは現在能であり、物語と舞歌が現在形で進行していく。

 他方、夢幻能は、亡霊や化身などが主人公であり、多くはワキの僧が物語のゆかりの場所を訪問して弔いなどをしていると、その夜のワキ僧の夢に故人の霊や神・鬼・物の精などが現れ、生前の行為を語ったり、その懐旧談をして、やがて夢の中で一旦はその姿を消していく(前場)、そして中入り後の後場では、主人公(後シテ)が昔の姿で現れ、物語を語ったり昔を懐かしんで舞歌を演じて見せるという構成をとる能である。前場は里女や老人など(前シテ)として現れ、後場は後シテが昔の姿で現れるという構成であり、時には複式夢幻能(井筒など)とも呼ばれる能の形である。

 夢幻能は意識の流れ方が物理的な時間のように常に過去から未来へと流れるものではなく、シテの意識の流れのなかに隨時、過去の記憶が流れこんでくるのであり、見る者には記憶としての過去が現代と融合してくる(戸井田道三著「観阿弥と世阿弥」)。

 見る者にとって夢幻能のこの意識や記憶の過去から現在、また現在から過去への往還するのが面白い。

 加藤周一氏は夢幻能について、次の三つのことを述べている。なるほどと思い、また面白いので要約してここに紹介させていただく。

 一 夢幻能は本来、一人の人物の死をはさんで、その生涯の此岸と死後の彼岸とがどう係わるのかを描く。旅の僧が前シテ(化身)に会い、後シテ(霊)が現れて、過去(当人の死に至る出来事など)を語りながら舞うという夢幻能は単に筋立てが現在能と違うばかりでなく、その構造が根本的に新しく、人間の全く新しい見方を提出するものである。

 二 夢幻能の形式は猿楽の能のなかで新しいだけでなく、演劇史の中でも他に例の少ないものである。この形式は中国にはなく、インドの古典劇にもなく、ギリシャ、ローマの古典劇にも西洋中世の神秘劇にも稀で、西洋の近代劇にもみられない。日本国の一五世紀に夢幻能の形式を見た当時の観客も異常な衝撃だったにちがいない。

 三 世阿弥は夢幻能の題材として同時代の大衆的な伝説をとらず、題材を源氏物語や伊勢物語、平家物語など平安朝文芸にとった。大衆性を犠牲にしても優美な文化的洗練を貴んだ。その意味で世阿弥は自らの芸術(この新しい)を弁護するために多くの能楽論を書いたことにもつながっている(以上、平凡社日本文化の変化と持続「世阿弥の戦術または能楽論」の夢幻能について述べた部分)。

 夢幻能は能の表現形式に新しい面を切り開いた画期的なものだと思う。それは物語の重畳的な表現、能のもつ抽象的な表現と神秘的な表現の重なり、また、夢幻と幽玄との融合、舞歌の素晴らしさなどとあいまって能の魅力をいかんなく発揮していると思うのである。

  

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第30号(2011/8/1発行)より転載

ページの先頭へ戻る