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古典をたずねて

歎異抄(その六)「本願ほごり」と財物の寄進について

 「本願ほごり」とは、煩悩具足の悪人を優先して救うという悪人正機の思想に甘え、どのような悪も勝手に行うことができ、神・仏などはいらないと考える人たちのことである。
 親鸞は「歎異抄」の一三章で弥陀の本願が不思議なものであるからと言って、その本願に甘えて悪事を恐れずふるまうということは、「本願ほごり」と言って、極楽への往生はできないと言うが、このように言うことは弥陀の本願を疑って、この世で善・悪を行うのは前世の報いによるものだということを覚(さと)っていないものであると言われる。
 そして、親鸞は「兎の毛や羊の毛の先(さき)の塵ほどの人の犯す罪悪も前世のしわざでないと心得るべきだ」と言われ、唯心抄(ゆいしんしょう)にも「弥陀がどれほどの力がおありになるかを知って、罪深い身であるから救われがたいと思うのであろうか」と言っていると言われる。
 一部の念仏行者を「本願ほごり」と咎める人たちも煩悩や不浄を身に十分に備えているように見受けられる。その状態こそ、弥陀の本願に甘えておられるのではないか。一体、どんな悪を「本願ほごり」と言い、どんな悪が「本願ほごり」でない悪といえようか。「本願ほごり」が悪いというのは「心(こころ)幼(おさな)きことか(幼稚な考えではないか)」と結んでおられる(日本古典文学全集・小学館・「歎異抄」)。
 親鸞は「本願ほごり」も弥陀の本願を信じているからこそ、本願に甘えることができるのであり救われないなどと言うのは間違いであると言われる(「親鸞」講談社学術文庫 笠原一男)。
 他方、親鸞は「本願ほごり」の言動が領家、地頭、名主などの政治権力と結び、親鸞教団の弾圧に口実を与えるときは、一片の同情も見せず、厳しく非難している(前掲書)。
 また、親鸞は「歎異抄」の一八章で、寄進するものが多いか少ないかによって、浄土に往生してから大きな仏になったり、小さな仏になるというが、とんでもないことであると言われる。
 そもそも、仏に大・小はないし、阿弥陀仏の御身の大きさをお経に説くのは、衆生のための手段として形に示されたお姿である。
 財物の寄進は、聖道門の布施の行ということであり、どんなに財宝を仏前に供えたり、師匠に布施をしても、真実の信心が欠けていればその寄付の効果はない。
 「一(いっ)紙(し)・半(はん)銭(せん)も仏法の方(かた)に入れずとも、他力に心を投げて信心深くはそれこそ本願の本意にて候はめ」(紙一枚、銭半文も仏法の方面に寄進しなくても本願の他力に心を打ち込んで信心が深いならば、阿弥陀の本願のご本意というものでしょう)。
 親鸞は財物の寄進をするのが仏となる道ではなく、深く弥陀の本願を信じ(真実の信心)、念仏をすることが仏となる道であることを強く説いておられるのである。
 「歎異抄」はまだまだ、多くのことが語られているが、今回をもって終わりとしたい。このシリーズを読んで下さり、ありがとうございました。

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第25号(2009/1/1発行)より転載

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