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古典をたずねて

歎異抄(その五) 況んや悪人をや

 「善人なほもって往生を遂ぐ。況(いわ)んや悪人をや。しかるを、世の人、常に言はく『悪人なお往生す。いかに況(いわ)んや、善人をや』この条(じょう)、一旦、その言はれあるに似たれども、本願他力の意(い)趣(しゅ)に背(そむ)けり。」
 これは、歎異抄のなかでも、最も有名な件(くだり)である。その現代語訳は次のとおりである。
 「善人でもやはり往生ができる。まして、悪人の往生は言うまでもない。ところが、世間の人は、普通には『悪人でさえ往生する。まして、善人は言うまでもない』と言っている。このことは、一応、理由があるようであるが、弥陀の本願の他力にもとづく救いの主旨にそむいている。」(小学館日本古典文学全集「歎異抄」)。
 この善人、悪人とは、世間一般の道徳的な意味での善人、悪人ではなく、宗教的な立場からの善人、悪人のことである。
 では、宗教的な立場での善人、悪人とはどのようなことであろうか。
 善人とは、極楽に救いとられるために、自己の力を頼り、衆生の利益となる善い行いをする人のことであり、悪人とは、極楽往生を願っても、自己の罪悪や煩悩を自覚して、自己の力に頼りきれず、ひたすら弥陀の本願にすがろうとする人のことである(前掲書を全面的に引用した)。もっと言えば、よい行いをし、経典もよく知り、修行もよくして自己の力を頼りとすることができる人が善人であり、よくないことを行い、仏典もよく知らず、修行することも困難な人を悪人と言っているように思う。
 この悪人正機の考え方や言葉は、すでに中国の善導大師やわが法然にも見えるところである(法然につき「法然上人伝記」)。
 続いて親鸞は言う。
 そのわけは、自分で善いことや功德を行う人は弥陀の他力に任せることができない人だから、弥陀の本願からはずれている。しかし、自力の心を改めて他力に頼るならば、弥陀の浄土(真(しん)実(じつ)報(ほう)土(ど))に往生できるのであると。
 さらに親鸞は言う。
 煩悩ずくめのわれわれは、どんな自力の修行をしても、生死(輪廻転生)の世界から離れられないのを憐れまれた阿弥陀さまが本願をおたてになった本意は、悪人の成仏のためである。だから他力に頼む悪人こそが、最も極楽往生をすることができるのである。
 そして、「よく、善人だれこそ往生すれ、まして悪人はとおほせさふらひき」という言葉で第三章が結ばれている。この悪人正機を述べた第三章は短いが、親鸞の信仰の要である「他力」あるいは「絶対他力」の教説を徹底した表現でわれわれに伝えてくれているのである。
 今回は多くの人が解説しているところであり、それを引用しながらの紹介となったが、最後までお読み下さり、ありがとうございました。

 小学館日本古典文学全集 「歎異抄」
 講談社早島鏡正著 「歎異抄を読む」
 講談社笠原一男著 「親鸞」
 講談社梅原猛著  「歎異抄」
を参考にした。

あべの総合法律事務所ニュース いずみ第24号(2008/7/1発行)より転載

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