事務所ニュース「いずみ」

古典をたずねて

更級日記

 更級日記第一回目は更級日記をとりあげる。
 更級日記は平安時代の中期を少しすぎたころに一人の女性によって書かれた人間記録である。作者は菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)である。6世前には菅原道真がおり、母の姉(作者の伯母)には蜻蛉(かげろう)日記の作者である道綱(みちつな)の母もいたし、遠い血筋には紫式部もいた。このように作者は文学的に恵まれた環境にいたのである。
 日記は作者が13の年に父の任国上総(かずさ)(今の千葉県の中央部)を出発して長い東海道を旅行した紀行文で始まり、帰京後の家庭生活、宮仕え、結婚生活などをありのままに書き綴り、夫と死別して一人の生活に入ったところで終わっている。
 日記を読むと作者の人柄や当時の様々な様子が窺えて実に楽しい。
 京に帰ることが決まって文学少女である作者がなんとしても「物語」を手に入れたいと願(がん)をかけたり、念願かなって叔母から源氏物語の完本を貰って耽読したのは14歳のころである。
 また、京へ上る途中、「足柄山」の項では美しい声で歌う遊女と出会い、その別れを惜しんだり、「富士山」の段では「山のいただきの少し平(たいら)ぎたるより煙は立ちのぼる。夕暮は火の燃えたつも見ゆ」と描写され、当時の富士山が活火山であった様子も窺えるのである。
 作者はこのころの多くの人がそうであったように信仰心があつく京の清水寺でこもったり当時有名で多くの人が参籠した奈良の初瀬寺(長谷寺)や近江の石山寺などにもたびたび物詣している。きっと、お寺へのお参りが信仰のためとともに当時の人たちのレクリエーションの一つになっていたのだろう。作者は32歳の10月頃、人々に勧められて、しぶしぶながら時の帝(みかど)後朱雀天皇の第一皇女の祐子(ゆうし)内親王家に宮仕えに出るが年老いた両親のことが気になったり馴れない勤めであまり永くは続かなかったようである。
 作者は従五位上であった橘俊通と結婚し二子を設けたようであるが、あるとき夫が任官したが任地が下野(しもつけ)(今の栃木県)と遠国であり甚だ不本意であり残念がるが父のときに経験した東国よりは近いといって自分を納得させたりしている。いつの世にも変わらない夫の地位についての妻の気持が垣間見えるようである。
 51歳のとき夫の急逝にあい、若いころに見た空想や現実の生活もまた夢のようなものであったと悟り、作者は晩年弥陀(みだ)の浄土を真実の住みかと頼んで、信仰の生活に人っていくのである。
 更級日記は女の自叙伝としてメンタルな面も含めて読み甲斐のある日記である。

あべの総合法律事務所ニュース いずみ創刊号(1995/8/10発行)より転載

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